(4)表向きの書類は基本的に読んでよい

 吾輩はシステムエンジニアーである。どうやら仕様というものはありそうである。

 トランザクションにおいて、仕入先と取引先の関係がマスターで定義された関係にならないという、吾輩からの「素朴な疑問」について、桜木さんは、
「あれ、そうでしたっけ?」
 と問い返し、手に持っていた水筒をぐいっとあおった。水筒からはカラカラと氷の音がしていた。冷たい麦茶でも入っているのだろう。最近、日中は暑くなってきたしね。

 結局、彼からは、
「うーん。マスターがこうなっていますから、仕入データのほうに、取引先がないほうがいいですよね。ちょっと、影響範囲調べて、列をなくしましょうか。」
 という言葉が得られたのだが、いや、そんなことではなくって。

 吾輩が知りたかったのは、仕入先と取引先の実際の関係であって、なぜ別の取引先を入力できるようになっているのかということである。しかも、フェーズは結合テストだから、このあたりのことは充分に議論されているはずではないのか。もし、これを、前職で後輩が発したとするならば、強くそれを問うていただろうと、苦い顔をしかけたとき、隣で我々の会話を聞いていた安藤さんが、ノートパソコンの画面から目を逸らさず

「現行踏襲!」

 という強い言葉を浴びせてきた。桜木さんが一瞬固まる。
「いや、だから、基本的にはマスタと同じものが入るけど、運用は現行と同じにするから、仕入データに取引先があってもいいって、お客さんとそういう話になったじゃない!」
 さらに強い言葉が発せられる。桜木さんは、しばらく一点を見つめ
「すみません。そうでした。」
 という言葉を絞り出し、
「そういうわけですので、マスタと違うものが取引先に入ってもいいそうです。」
 とばつが悪そうに言いながら、巨大なER図を僕に手渡してきた。

 なるほど。吾輩の疑問はわからなかったが、こういうことは聞いてはいけないということはわかった。もうひとつわかったのは、社内的に桜木さんより安藤さんのほうが職位が上だということだ。桜木さんは、「さん」付けよりも「くん」付けのほうが似合う青年であるのに対し、安藤さんは、白髪も多く、歳を重ねたことによると思しき恰幅のよさがあるわけで、一目瞭然と言えばそれまでだが、いずれにせよ、桜木くんが安藤さんと適切なコミュニケーションが取れているのかと、吾輩が考えなくてもいいことを考えつつ、肩を落とし気味に自席に戻ったとき、ランサースタイルの島でひそひそ話がはじまった。

「またやってる。あれされると気分が悪いんだよね。」
「そうですよね。私もああいうのが嫌でフリーになったんですよ。」

 声の主は、吾輩の隣の座席が向かい合う男女。吾輩は入ったばっかりなので、名前はまだわからない。端末には、IPメッセンジャーが入っているのに、わざわざ口に出して言うってことはそうとう積もるものがあるのだろう。さらに聞こえないふりをして聞く。

「上下関係で仕事をされると、何が正しいのかわかんなくなりますよね。」
「結局困るのは彼らだから、全然いいんですけど。」

 ふむ。今のくだりで重要なのは、安藤さんが体制や上下関係を振りかざしたことよりも、先輩が後輩を納得させられなかったことじゃないだろうか。指示には、時には大義名分である場合もあるが、正当な理由が必要だ。さらにかんがみるに、「現行踏襲」というフィニッシュホールドを使わざるを得なかったということは、上位の体制、つまり、エンドユーザーに近いところで、新しいシステムへの議論がじゅうぶんに為されていないからだろう。ITの専門知識を活用して、お客さんと同じ立場でシステムの姿を考えるのが、広義のシステムエンジニアーの役割であるが、その立場にレインボーさんはいなかったように感じる。思い切って、口を開く。

「あ、お話し中、すいません。新しく入った山口といいます。私もなんか似たようなこと思いました。」
 男性のほうが怪訝な表情を見せるも、
「あ、聞いてらっしゃいましたか。山中と言います。私、この現場は結構、長いんですが、いろいろありましてね。ねえ、里見さん。」
「そうです。私はとりあえず山中さんに壁になってもらってるんで実害は少ないんですけど。」
 彼らはうまくいっているようである。よかったね。

 当たり障りのない会話を少ししたあと、レインボーさんの島に行ったもうひとつの理由を思い出した。スケジュール調整のお願いをしないといけないんだった。離席中の山中さんの席を通ったとき、彼のデスクに、書類が表向きで置いてあるのが見えた。表向きの書類は基本的に読んでよい。しかし、それが、明らかに新機能の設計書であるとわかったときに愕然とした。

 このプロジェクトは、火を噴いていて、今、みんなで動かないものを動かそうとしているんじゃないの?