(6)高嶺の花を満足させる自信はなかった

 吾輩はシステムエンジニアーである。現場にあるのは、仕様とプログラムだけではない。

 山中さんに話しかけるべきか、そして、なにを話すべきかも含めて、吾輩は(この休載期間の)丸3ヶ月も考えたわけだが、初めてのフリーランスとしての現場で、少し興奮しているのもある。この 10 年間のサラリーマン生活のなか、終電間際の乗換駅で、あの頃は味なんてわからなかったスーパードライを無理矢理ねじ込み、昼間の自分のふがいなさを悔やんだことを思い出す。絶対に言っておいたほうがよかった侘びの言葉を、番号を知っているにも関わらず、通話ボタンが押せなかったのは、当時が、個人主義が蔓延しはじめたころだからだったろう。それ以来、仕事は仕事と割り切ってしまったが、それでも、憧れの先輩と2人で行った出張のときの夕食では、彼女から傷心の話を打ち明けられ、僕は秘めた言葉を言えなかった。

 僕があのとき「すいませんでした、その場を取り繕うのに必死だったんです。」とか「先輩は素敵ですよ、僕が慰めたいです。」とか、ちゃんと言えていればよかったのに。…いや、高嶺の花を満足させる自信は、あの頃の吾輩には、なかったわけだけれども。
 
  
「あっ、山口さんでしたよね。あれ?帰ってもいいんですか?」
 後ろから、苗字をさん付けで呼び、振り返った彼の言葉は、概ね予想通りだったが、ちょっとした罪悪感に言葉が詰まる。

「いやっ、あのー、最初の画面がね、デカすぎてしんどくなったんです。少し動かしてもねえ、バグりまくりスティーでね。」最近、流行ってるらしい親父ギャグをブッこみ、ふっと表情を緩めた、山中さんにあえて、疑問をぶつける。

「山中さん、どうして、テストじゃなくて、新規やってるんですか?」
「え?」
「ごめんなさいね。ちょっと設計書が見えちゃったんです。10 年もやってると、机の上の表向きの資料は見ちゃうんです。」
 吾輩の言葉を聞いた彼の表情は、呆れ気味に変わり、喫煙所から見えていた、あの河川敷のほうへ目を細めた。

「下品な人ですね。」
「すんません。注意力が散漫なもので。」
「いや、謝らなくてもいいですよ。山口さんのことは、営業の出水さんから聞いてます。フリーになりたてなんですよね。だったら、人のやってることに口を出さないほうがいい。」

「その気持ちはわかりますが、どうすれば、この現場の仕事が早く終わるかを考えちゃうんです。ダメですか?」
「ダメじゃないですけど。」

 少しの間、沈黙が流れた。あと5分ほど歩みを進めると最寄り駅。次は吾輩のターンだという雰囲気の中で、次の言葉を絞ろうとしたとき、優しい彼が助け舟を出す。

「さっきも見ていたでしょ。あのプロジェクトが破綻していることは、きっと、山口さんにもおわかりでしょう?」
「お言葉ですけど、僕は、破綻という言葉は嫌いなんです。ざっと見たところ、あのプロジェクトは数千万円だと思うんですけど、書きかけのプログラムを見る限り、あの程度であれば…いや、収支的には失敗かもしれないけど、破綻という言葉は適切じゃないと思うんですけど。」

「じゃあ、破綻ってなんなんですか?」
「国家予算かしら。でも、国家予算も破綻ではないんじゃないかな。このあと、いくらでも修正が利くと思う。」

「よくわかりませんね。」
「そうですね。僕もよくわからない。」

不思議と重なっていた二人の革靴の音を聞いて、吾輩は思い出した。
「ところで、共通機能の設計書、よくできてましたね。あの分量で、あそこまで表現できているって、言葉の多い僕には絶対にできない。」

「誰もついてこれないんですよ。」
「たぶんそうなんでしょうね。」
「すぐれた技術で、エレガントなプログラムを書くことこそが、顧客のためになる。これは間違っていますか?」

「間違ってないです。でも、エレガントなプログラムなんて、僕にはもう書けないし、今では書けるひとも少ない。こちら側に来るのは、小さい頃からの夢だったけど、年もとったし、時代も変わったから。」

 微妙な空気を残しつつも、最寄り駅で地下鉄にもぐる彼を、お疲れさまでした、と声を掛け合い見送った。明日は早起きだ。