(11)リナちゃんのこと

 吾輩はシステムエンジニアーである。IT業界が華やかに見えるのはただの幻想に過ぎないが、現場には、咲き誇る高嶺の花と、場違いにひっそりと咲く一輪の花というものがある。

 時計の針が10時半を回っていたのはわかっていたが、帰り際に話しかけた小倉さんとの会話が非常に懐かしくなり、一杯だけ呑もうということになった。最寄り駅までにある細い路地へ誘い込むように光る「BAR」と書かれた看板の先の、カウンターに陣取るやいなや、小倉さんはおそろしく予想外のことを口走った。

「山口くん、元気だった。そういや、前の会社のあの子とはどうなったの。なんか隠そうとしてたみたいだけど、けっこうみんな知ってたよ。リナちゃんとか言ったっけ。」
 なるほど、会社を辞めるということは暗黙のルールというものから解き放たれるということなのか。吾輩は10年前と、現在のフリーランスとの間の違和感について言葉にしたかったのだけど。

 流川さん、通称リナちゃんは、吾輩が常駐先からまとまった仕事を自社に持ち帰った時に手伝ったもらった女の子だ。美容系の学校を出ているのに、IT業界を志望したとのことだった。歳は23、4だったろうか。バイトで営業事務をしていたが、吾輩の仕事のスケジュールが厳しく、作業自体はパラメータの入力と画面操作でソースファイルが生成できるというものだったから、開発に興味のある彼女に手伝ってもらおうということになった。
 メンバー6人を率いたプロジェクトはこれまでと変わらず男所帯で、残業も込んできたなかでの彼女の投入は、効果てきめんだった。メンバーの負荷が減ったのが第一であるが、日頃2次元と仲良くするような、彼女と歳の近しいプログラマーたちは、彼女に興味がないふりをしつつも、彼女からの質問に嬉しそうに答え、そして、女子との他愛もない会話を楽しんだ。残業こそ微減ではあったものの、目に見えて生産性は上がっていった。

 残暑の週末のある日、台風19号が南から北上していた。吾輩は課長からのメールを受け、メンバー全員を定時前に帰した。残業に疲弊していた男衆は喜んで帰ったが、流川さんだけが、3日遅れという理由で、帰ろうとしなかった。スケジュールはどうとでも調整できたはずだったが、彼女の口ぶりから、早く一人前として認めてもらいたいと必死さが伝わってくる。吾輩は彼女の横に着いて、ギリギリまで粘ったのだが、雨風は強まるいっぽうで、とうとう電車は止まってしまった。出張慣れしていた吾輩は彼女のために近くの宿を確保し、吾輩はビデオ試写室で新作をチェックするつもりで、彼女を部屋まで送ったが、心細いからシャワーを浴びている間は帰らないで、というタテマエによって、しばらくの間、彼女と同じ部屋にいることになってしまった。

 安くはないシティホテルからの暴風雨の夜景を見ながらパソコンを広げ、残務をしようとするも落ち着かない。そうこうしているうちに浴室の水の音が止まり、ドアの開錠音が部屋に響く。アメニティーのガウンを身にまとった姿からは、下着まで雨に打たれたからかどうなのか、くっきりとそのままの大きな谷間が見えていた。

 冷静さを装い、吾輩が部屋から出ようと彼女に背を向けたとき、リナちゃんは両手を広げ、吾輩に訴えた。
「山口さん、何もしてくれないんですか。」
吾輩は振り向き、
「落ち着いて。山口さんとリナちゃんは、ただの社会的な上下関係なの。第一、オフィス・ラブは仕事がやりにくくなるからだめだよって、あいつらにいつも言っているの、リナちゃんが一番よく知ってるじゃない。」
精一杯の吾輩の強がりを聞いて、ブサイクに頬を膨らせた彼女は、少し間をおいてこう続けた。

「わかりました。でもひとつだけお願いを聞いてください。」
「内容によるけど、なに。」
「リナのあたま、ポンポンしてもらえますか。」
という言葉にまかせ、彼女は吾輩の目の前に顔を近づけて目を閉じた。

 マネージャーとして、彼女を認めたかった吾輩は、やさしく彼女の頭に手をやった。上背はなく、決してスタイルがいいとは言えないが、人懐っこさが存分に溢れたふくよかなからだを見ながら、オフィスでちょこまかと動き回るさまを思い出した。さらに凝視すれば、やはり少し鼻が上がってると再確認し、ほんとうに子豚さんのように愛おしいと息を飲み、彼女が恍惚の表情から遠ざかる意識の中で、大きな口を少し開けたとき、吾輩は彼女の唇をむさぼってしまっていた。

 ほどなく、プロジェクトは無事納品を済ませ、流川さんの送別会が盛大に行われた。ピロートークで聞いた話だが、定職に就かない娘にお父さんが激怒しており、実家への強制送還が決まっていたということだ。納品までの数ヶ月は忙しく、彼女とはそれっきりだったが、事あるごとに、私いつか両親を言い聞かせて戻ってきますからと言っていたものの、数直線もベン図もわからない女の子がこちら側に向いているとは到底思えなかったし、本当にやりたいことを貫いてほしいという親心もあった。とはいえ、彼女がいなくなったという喪失感は、今も癒えているのかわからない。