(14)やんごとない

 吾輩はシステムエンジニアーである。ハラスメントはされたほうの感情が害された時点で成立するそうである。

 さて、吉沢さんのおかげをもって手に入れた売上金の按分ルールのドキュメントは、考慮すべきケースは多いものの、結果的には複雑なロジックにはならなかった。書き上げたプログラムを見返しながらほっと胸を撫でおろす。

 こういったドキュメントは、たいていの場合、お客目線で書かれていることが多い。彼らの言葉では、たくさんの場合分けや条件があるために、大変な仕事という感覚であるのだが、実際にプログラムに落とし込むと、共通化をはかったり、ここまでは違うがあとは同じ、というフローに帰着できたりするから、実装はそこまで難しくならないというのはよくある話である。今回もそのケースに当てはまった。
しかし、お客さんとしては、この業務は複雑であるという感覚は変わらないわけであり、プログラマー目線で導いた「複雑ではないもの」という感覚を、ベンダに与えられた仕事が業務改善ではないときに、これをお客に押し付けて、険悪な雰囲気になるということもわりとある。
 お客の気持ちを理解しないまま、プログラム開発の現場の感覚を貫く人間は、お客との会話の場、いわゆるシステムエンジニアリングにおける「前線」からは退場を促され、「後方」支援にまわる。かといって、最前線にいる人間も、後方のことは考えずにお客のほうばかりを向いていることが多い。吾輩はこれまで、最後方から徐々に上がっていき、一度最前線を見たあと、好んで後方寄りの中盤に収まることが多いから、どちらの気持ちもわりと理解しているつもりである。しかし、同じ「味方」であるのに、前線の人間が客みたいな顔して偉そうな態度を取られると、言うことが違う客が別々にいる感じがして、混乱するというよりは、神経が衰弱する。

 そんななかで、前線から退場を促された尖ったエンジニアは、最後方にまわっても尖ったままであり、こちらも困る。彼らはどうやら「私はすぐれた技術を持っており、頼まれてプログラムを書いている」という孤高の感覚のようであるが、そのわりに寂しがり屋であるために、その裏返しで、自己顕示が恐ろしく強い。会話が噛みあわないか、こちらの話を理解しようとしていない。結果、こちらがいくら言葉を積み重ねても、ちいとも彼らには響かないことがわかり、歩み寄ろうという発想自体がなくなっていく。比較的気の長い吾輩でも、そういった感覚になろうというときには、彼らは後方からすらも退場を促されている。これが自然淘汰というやつだろう。いっぽうの、ずっと客の顔をしている前線の味方は、自然淘汰はされない。商流や社内政治、またスキルの事情などがあるからだろう。少なくとも日本においては、プロジェクトメンバー全員が、エクセルやパワーポイントをぬるぬると使え、プログラムが読めるだけではなく、正しく書けて、お客の言葉と仕事を理解でき、そして、ニュートラルな感覚を持っているというわけではない。閑話休題。

 ちょうど昼休憩のチャイムが鳴り、お客のビジネスルールが三段組みでぎっしりと書かれたA4横、三枚のそのドキュメントを手に取って天を仰ぎ、そういえば、安藤さんと川村さんの一件以降、一回も煙草に席を立っていないと思い出した。いや、その前に、このドキュメントの所在を教えてくれた隣席の「味方」に礼を言わなければ。苗字をさん付けで呼ぼうと、彼女のほうに視線をやったが、なにか話しかけづらいオーラが出ている。
 描いていない地毛の眉毛の角度は明らかに困っており、キーボードのホームポジションに置かれた両手は固まっている。なんか新しい問題が出てきたのかしら。それとも、久しぶりのお通じが来たのかしらと下世話なことを思いつつ、お礼を言うタイミングが与えられないまま、吉沢さんは、鞄から長財布を取り出し、静かに立ち上がった。そうか、今日の昼ごはんは何にしようかと考えていたのかと自己解決し、彼女がオフィスのゲートに向かう背中を眺めながら、彼女のパソコンがロックされていないことに気付く。画面の真ん中に長方形のIPメッセンジャーのウィンドウ。送信元はさっきひと悶着したプロジェクトリーダーの川村さん。

 なんだろう。彼女は一介のプログラマーと決め込んでいるはずで、これまで二人が会話をしていることなんて見たことないのに、あのオッサンと何か話をすることがあるのだろうか。ウィンドウの「開封」ボタンを押せば、彼から何が送られてきたのか見られるが、いずれにしても、ロックされていないことはまずいので、彼女のノートパソコンのフタを静かに閉めた。落ち着いて考えると、彼女はこのメッセージが来たことを見て、あの表情になったのかと思い、川村さんのほうを見ると、彼も吉沢さんの背中を意味ありげな表情で追っていた。何かやんごとないな。