(16)今こそ使うべきだった

 吾輩はシステムエンジニアーである。最近、誤解されているようなのだが、この小説はあくまでもシステム開発の現場を描いているつもりである。

「ここ、ずっと気になっていたんですけど、こんな感じのお店だったんですね。」
 一昨日に小倉さんと「吾輩の考えるフリーランスとの違和感」について話した、現場近くのショットバー。電球色のスポットライトと間接照明でまとめられた店内は、カウンターが6席と、壁際に二人掛けの丸テーブルが3つ。おあつらえ向きにBGMはジャズピアノが流れている。理由はどうあれ、こういうお店に若い女性と2人で来ることが緊張しないといえば嘘になる。とはいえ、吉沢さんの弾んだ口調に安堵しながら、彼女をカウンターの奥の席へエスコートする。
「私いつも一杯目はジンベースなんですが、今日はご飯前に軽く、ということなんで、ビールにしましょうか。」
「ビール好きです。そうしましょう。」
「あ、タバコって吸ってもいいですか?」
「いいですよ。私、父親がヘビースモーカーなんで平気です。」
 どう見ても20代前半の彼女はこういうところは慣れていないだろうという勝手なおせっかいで決めた一杯目を待ちながら、平日の夜、お互いに長居は明日に響くだろう。手短にまとめようと、メビウスを一息吸い、本題に突入する。

「うーん、営業の出水さんには相談しました?川村さんからストーカーまがいのことされてるって。」
「いえ、まだ言ってません。それは最後の手段かなって。エクセルのマクロが組めるだけの、ほぼ未経験の私をこの現場にねじ込んでくれたの出水さんのおかげですから。それに、この現場を終わることになって、新しい現場が見つかるかどうかのほうが不安です。せっかく、フリーランスとして仕事が始められたのに。」
「そうですか。前職は歯科技工士って言ってましたね。」
「はい、入れ歯作ってました。」
 二人の間に和んだ笑いが起こった。

「ところで、川村さんはずっとあの調子なんですか?」
「3カ月前に、私と同じ時期に入ったメンバーの歓迎会があってからですね。川村さんの知り合いが近くの繁華街で小料理屋をやってるから、一緒においしい季節の天ぷらを食べよう、とか言う話で盛り上がっちゃって。別に何の感情もあるわけはないんですけど、なんとかこの現場でやっていきたくて。社交辞令を積み上げていったら、そのうち、今度高校生になるお子さんがいるのに、奥さんと別居してるとか、そういうところまで話が行っちゃって。後に引けなくなったという感じです。」
「うーん、疑似恋愛ってやつですか。」
「変な言葉ですね。」
「疑似恋愛自体は悪いことじゃないと思うんですよ。自分を高められたり、楽しい気分になれるのであれば。それを口に出したり、態度に出すからおかしなことになる。」
「私、歯医者さんを辞めさせられて、派遣で事務をしていたときも、なんか一方的に男性につきまとわれるってことがあったんです。そのときは、ランサースタイルさんの仕事が決まったので、事なきを得たんですが。これからは、技術者のはしくれとして、コンピュータだけが相手になるから、人間関係で悩むことはなくなると思っていたんですが、そんなことはないんですね。」

「ちなみに『辞めさせられた』ってなんですか?」
「ああ、自然と口に出ちゃってましたか。失礼しました。あんまり人には言わないんでほしいんですが、私、学校を出て、20歳のときに町の歯医者さんに入ったんですけどね。ご夫婦でやってらしたんですけど、旦那さんのほうの先生と関係を持ってしまって。それが奥さんの逆鱗に触れまして、辞めさせられました。」

 そういう話はもっと遅くなってから聞きたかったが、まあ彼女から言ってきたことだから仕方がない。驚いたが呼吸を整え、
「それは恋仲だったんですか?」
「いえ、向こうからの猛烈な感じでした。ただ、この話は続きがあって。あのとき、なにか間違ってたみたいで、辞めさせられたあと、お腹に赤ちゃんがいることがわかって。今頃、両親に寝かしつけられてると思います。もう三歳になりますね。」
「え!吉沢さん、子供いるの?」たまげた。
「そうですよ。だから、男の人に振り回されて、仕事を追われるってことは絶対にしたくないんです。子供のためにもね。」
 そう言って、ハートランドをぐいぐいと呑む横顔には、今まで彼女が見せなかった強い母というものを感じた。今こそ使うべきだった、いろんな人生がある。