(22)他人に歩み寄る努力はできているか

 吾輩はシステムエンジニアーである。世の中にとって不必要な仕事というのは何ひとつない。しかしながら、無理な仕事を請ける必要はないし、しなくてもいい仕事はある。それはわがままという意味ではないのだけれど。

 あとから聞いた話だが、「炎上宣言」があった会議のあと、山中くんは、元請の役職者と川村さん、レインボーの浅見さんとあの場に残って、新しいWBSでの作業での説明をこんこんと受けていたらしい。会議からデスクに戻った彼を除くメンバーは総勢は、昼のチャイムが鳴るまでの数分の間、これから起こる嵐の2週間のことをできるだけ考えないように、めいめいがぼんやりと過ごしているように見えた。吾輩も、両手で後頭部を押さえて、このあとの段取りを整理していた。このまま行けばあすは徹夜で、少し寝て、あれとこれのQ&Aを出して、週末に間に合わせて…と考えていたとき、山中くんだけでなく、お誕生日席の蒼井さんも席にいないことに気づいた。ほどなく、携帯電話を片手にものすごい剣幕で蒼井さんが自席に戻ってきて、帰り支度をはじめた。そうか、優秀なディレクターとして迎えられたのに、会社をまたいだ意思決定のプロセスに不満を持ってから、我関せずと定時退社を決め込んでいた彼は、これ以上、ここにいても仕方がないという判断をしたんだな。

 実は、蒼井さんのことは、この現場に入る前に営業の出水さんに聞かされていた。ランサースタイルさんの中でも1、2を争う優秀なアーキテクトで、山口さんとはスキルや目指す方向も似ているみたいだから、ぜひ参考にしてくださいとのことだった。だが彼が「話しかけるなオーラ」を出していたこともあり、世間話のただ一度すらできなかった。彼の帰り支度が終わり、現場をあとにしようとしたのは、ちょうど昼のチャイムが鳴ったときだったので、つぎに一緒になることはあるかどうかわからない、特に話し掛けるつもりもなかったが、昼食のために下界へ降りる吾輩と、エレベーターホールで並んで3号機を待つことになった。

「山口さんですよね。」まさか話しかけられるとは思わず、すこしまごついたが、蒼井さんはデスクにいるときの、仏頂面に近い無表情と違った、とても柔和な表情を見せた。やっぱり演技してたんだな。
「…はい…そうです。お話しはうかがってたんですが、こういう現場ではちょっと話し掛ける機会もなくって。出水さんに退場を願い出たんですかね。」
「そうですね、交代要員をお願いしました。今日は引き揚げます。もうここに来るつもりはないですけど。」

 出水さんが言っていたように、目指す方向や、志向していたポジションが似ていたのは、彼が「一時期まで」構想をまとめていた、方式やフレームワークのドキュメントを見て感じてはいた。違いがあるとするならば、彼はこの現場で使っているMという言語に特化していることと、できるだけ最新のテクノロジーを使おうとしていたことだ。ただ、これがこのシステムないしはメンバーのスキルを含めたプロジェクト全体に最適であったかといえば、それはどうであったのか。

「でも、山口さんすごいよね。俺にはあんなことできねえわ。」
 3号機が地上に近づく中で浅見さんがつぶやく。この一瞬でわかりあえたような吾輩はもうひとつ踏み込んでみる。
「問題は、山中さんがね、ちゃんと予定通りのことをやってくれるかだと思うんですけど。」

「山中ねえ、あいつは、俺が連れてきたんだけど、途中で言うことを聞かなくなっちゃってね。…プログラムをもう書かなくなってる俺が残るよりも、あいつは残るという選択をすると思うけど、俺からもよく言っておくよ。
…しかし、揃いも揃って、自分に責任が降りかからないように、何も決めないし、何も理解しようとしないよね、ユーザーに近ければ近いほど。バカばっかりだ。それでいて、できていなければ会社を挙げて、全力で文句を言ってくる。こっちは、そちらが何も決めないからだと言っているのに、聞く耳を持たない。俺も長いから、そんなことがよくあることはわかっているけれど、今回はひど過ぎた。無責任なようだけど、あとは任せるわ。」

吾輩の任期はあと2週間で、使命は動かないものを動くようにすることである。彼とは役割が違い、彼の気持ちも痛いほどわかった。他人のせいにすることは簡単だが、果たして他人に歩み寄る努力はできているか。システムは客と一体になって作るものであるということが、今の日本のITの構造で実現可能であるのか。お互い同意という顔を合わせて、彼の後ろ姿を見送った。