(23)パソコンを覚えたての少年

 吾輩はシステムエンジニアーである。このプロジェクトのシステムはまだ動いていない。

 今晩は長丁場であろうと、今日のアジフライ定食はご飯を大盛りにした。これだけでも、夕方のお腹の空き具合は違う。
 下界からデスクに戻ると、蒼井さんが言っていた通り、山中くんは荷物をまとめることはしていなかった。むしろ、いつもの一人で大人になりましたみたいな顔ではなく、若干猫背ぎみに、ノートPCに向かって、マウスをポチポチしている姿は、パソコンを覚えたての少年のように見えた。
 さっきの長い会議のあと、浅見リーダー一同は、彼になんと声をかけたかはわからない。ただ、蒼井さんの無念と、蒼井さんが彼を連れてきたという話を聞くと、彼の、その尖ったプログラマー像が社会人になりたてのころの吾輩の姿を思い出して、あまりいい気分になれなかったから、触れないようなしようとしていたという、そんな気持ちは少し和らいでいた。いや、そんな情緒的なものよりも、火事場にいることを決めた気持ちを尊重したい。

 彼が画面を凝視していたのは、テスト環境を作るためだいうことは、彼の後ろを通ったときにわかった。蒼井さんが志向した保守を用意にするための方式では、いくつものミドルウェアを必要としていた。吉沢さんや里見さん、そして吾輩のやることは変わらないのでそのセットアップはできているが、彼はずっと新規だったので、開発環境しか入っていなかったのだろう。
 往々にして、こういった火事場の環境設定手順書はどこかが細かいところで間違っている。たいていは、設定ファイルの1文字が大文字であるところが小文字になっているとか、サーバーに上がっているライブラリファイルが更新されないままになっているとかであるが、こういったことは、ソフトウェア方式や、その特性を理解していないと正解を導けないことが多い。吾輩もはじめのころにはずいぶんこの構成に苦労させられたので、正解の設定手順書はできている。これを全体に共有していないのは、共有しましたとアナウンスしても、誰からも感謝されそうにないからだ。自らの裁量を決め、裁量を越えることにはおうかがいを立て、自分の責任の範ちゅうにしない、ということは、どこでも言われるオンサイト作業での鉄則だが、この「自分の裁量」を越えることを、積極的に拒否し、閉じこもるようになったとき、鉄則である金言はいわゆる「デスマーチ」の定義に変わる。

 さて、吾輩も、昼前に立てた段取りで、新しいWBSを捌いてゆく。吉沢さんは言うことなかれ、ただの文句の1つも言わず馴染みのない画面を動かし始めているし、里見さんは明らかに他人の作った画面が割り当てられていたが、なんだか目つきがいつもと違っていた。こういったことが初めてなのかもしれない。あのアナウンスの実現可能性はともかく、効果があったといえるのかもしれない。
 オフィスをまぶしい西日が照らし、ブラインドが閉じられるようになった午後三時ごろ、いつもは一時間に一度のところを、心地よい緊張感で仕事が進んだ吾輩は、昼食以来の喫煙に立った。山中くんの後ろを通ると、まだセットアップが終わっていない。手早く用を済ませ、彼に話しかける。

「まだ動かない?」山中くんは突然話しかけられたことにびっくりしていたが、瞬時に事情を察したかのように、
「…ええ、手順書通りやってるんですけど、どうしても、起動処理に失敗して。もう3回くらい同じことやってるんですけど。」
「あっ、その手順書間違っているところがあるよ。正しい手順をまとめてあるからIPで送るよ。」

 しばらくして、正しい手順書を送ったIPメッセンジャーの返信には(やってみましたけど動きません。なにが違うんですかねえ。)とやってきた。浅見リーダーは離席中、安藤、桜木両名は、この状況を受け入れたくないのか、とある画面や機能のあるべき論を議論している。ここまできてそんなことやってる場合かよ。仕方がない。

「僕の環境をコピーして送るから、そっちで動くかやってみて。こっちでもやってみるから、そっちの環境もコピーして送って。」
と山中くんに告げ、1時間かけてお互いのコピーを送り合った。山中くんが自端末に展開した吾輩の環境については、彼がわざわざ吾輩の隣にやってきて、
「山口さん、動きましたよ。何が違うんですかね。差分とっても、接続先が違うだけなんですけど。」
と少年のような眼差しを投げかける。

「そっか。しばらく僕の環境使っていいから、それでテスト進めたらどうかな。たぶん、そっちの環境が動かないのを追いかけるのは僕が見たほうが早いだろうからちょっと見てみるよ。」