(24)林先生に聞くまでもない

 吾輩はシステムエンジニアーである。仕様はまだないが、もうそんなことはどうでもいい。

 山中くんの環境を受け取ったときには、もう陽は大きく傾いていた。テストをすることを受け入れた山中くんは、吾輩の環境でテスト作業のギアを、2速、3速と上げようとしている。オンサイトの鉄則がわかっている、という言い方とは少し異なる気がするが、彼は「山口さんは自分のタスクがあるんでしょ。レインボーさんに投げたらいいんじゃないですか。」と言うが、蒼井さんがいなくなっている今、タスク調整するのでもう少し調べてみてくださいと言われて、そのままの作業を押し付けられるのが関の山だろう。同じ環境でテストすることは、データが重複してしまい生産性の邪魔をする。こういった環境の原因追及は、明らかになりにくいが、重要なクリティカル・パスで、いつまでも追いかけてくる。いつやるかどうなんて、林先生に聞くまでもない。
 さて、起動処理が失敗するところまで動かしてみる。なんのエラーメッセージもなく、「起動処理に失敗しました」というメッセージのみが表示される。すべてのログを見る、おかしいところは何もない。基本に立ち返って、ひとつひとつ見ていく。

 時計の針は午後10時を回ったが、さすがに今日はまだ誰も帰らない。そして、山中くんの環境が動かない理由はまだわからない。さすがに途方に暮れて喫煙に立つ。

 喫煙所からの下界の景色は暗闇だが、今、吾輩がいる高層ビルのとなりには新しいビルが建てられようとしていることに今日の今日まで気がつかなかった。システム構築は家を建てることによく例えられる。きっと、ビル工事にもタイトなスケジュールというのはあるのだろうが、我々との決定的な違いは、日没したら帰れるということだろうか。IT業界でも、持続可能社会における省エネとかにかこつけて、午後9時以降は基幹サーバーの電源を切るなどの法律ができないものだろうか。因果な商売だ。

 デスクに戻った吾輩は最終手段「ログ大作戦」に出ることにした。すべての分岐と、失敗が考えられるう結果をすべてのファイルに出力する方法である。すべてのログが入れ終わったとき、山中くんが話しかけてきた。
「僕キリがいいんでそろそろ帰りますが、どうですか。」
「んー、まだわからない。でも大丈夫、明日徹夜の予定だったのを今日にするから。できれば明日動く状態にしておくよ。」と彼に声をかけた。結果はどうなるかわからないが、ここまで献身的な姿を見てくれれば、さすがに少しは心動くだろう。
 午後10時40分。見慣れないログをようやく発見した。テスト用のデータベースを使っている場合に必ず出るエラーメッセージのなかに、吾輩の環境では出ていないメッセージが、しれっと、1行出ていることにやっと気がついた。

【推測される現象】ディスク領域が足りません。

 吾輩のデータベース領域ははじめからテスト用だったので多めにとられていたが、山中くんのそれはテスト用ではなかったので領域が少なかったということらしい。こんなこと、わかるわけがない。インフラを対応できるのは川村さんだけだ。午後11時8分、川村さんが帰ろうとしている中、浅見リーダーに話を通して、吾輩だけで元請の川村さんにお願いをしに行く。相変わらず、レインボーの社員は、川村さんと話をしたくないらしい。レインボーの社員達が吾輩の背中を見守るなか、

「えっと、川村さん、山中さんのデータベース領域が小さくて、テスト環境が起動しないんです。拡張してほしいんですが。」
「ン、明日じゃアカン?いや、明後日の昼やな。明日は状況を自社に報告しに行かなアカンねん。」
 このひと関西人だったのか。
「そういうことなら、ぜひ今お願いしたいです。彼の領域で今晩私がテストしたいんです。」

 彼は表情を変え、声量を増やす。
「もう終電なんだよ!大体、こうなったのは、お前らの責任だろ!そういうことはもっと早く言えよ!俺は今日は帰るからな!」このひと怒ったら標準語になるのか、面白いひとだ。レインボーさんもかわいそうに。何も決めないというひとがこのひとであったならば、蒼井さんも運が悪すぎた。後ろで見守っていたレインボーさんが罵声にたじろいでいたのがわかり、吾輩も少しうろたえたが、この「感情的な発言」の使い方には納得がいかなかった。いくばくかの怒りをおぼえたのち、呼吸をととのえ、吾輩は彼に耳打ちした。

(吉沢さんを付け回していること、みんなにバラしますよ。)

 15分もしないうちにディスク領域は増え、彼はタクシーで帰っていった。やりたくなかったが、これしかなかった。