(25)卒業という概念

 吾輩はシステムエンジニアーである。もうページがない。

 あの一件以来、川村さんは言うことを聞いてくれるようになり、レインボーの安藤さんと桜木くんも、吾輩にはある種の信頼をおいてくれるようになった。吾輩がつくった環境で山中くんのテストも進むようなってきたが、綱渡りであることに変わりがないことは、メンバー全員が認識していたようだ。何よりも、一番それを感じていたのは浅見リーダーだったのだろうが、吾輩の満了まで残り3日となったというのに、彼の吾輩へ当たりが冷たくなってきたことが気になっていた。
 予定を遵守するために徹夜を決め込んだ朝五時、最後の大物のテストが終わった。あとは細かい3本を昼間にこなして、吾輩もお役御免だ。状況を報告したいので、定時でメンバーがそろうまで、少し仮眠をしようとしたとき、ふと印刷されたWBSが目に入り、吉沢さんと里見さんの次のタスクを入れ替えたほうが絶対に早いと気がついた。浅見リーダーが出勤してきたら、話をしてみよう。……ZZz

「もう、余計なことはしないでもらえますか。」

 浅見リーダーから告げられた言葉に吾輩は凍り付いた。この案件のリーダーは俺だと言いたかったのか、はたまたはじめから、ソフトランディングなんてする気はなく、失敗してみせることで川村さんの会社の責任問題にしたかったのか、もう議論する気力は残っていなかった。お前がプロジェクトの雰囲気を改善しようとしないから、WBSに書いてないことまでしてやったのに、なんだいその態度は。だいたい、蒼井とか、浅見とか、吉沢とか、桜木とか、里見とか、ここは恵比寿マスカッツ(初代)か!

 もう疲れた。
 幸い、今日は火曜日で美容室は休みだから、徹夜明けで帰ると、みのりちゃんが家にいるはずだ。しばらく、まともに話せていなかったので、午前中から軽く酒盛りでもしよう。
 
 かろうじて寝落ちは免れて自宅にたどりつき、リビングのドアを開けると、テーブルには2人分の朝食が用意してあった。トーストの香ばしい匂いがただよっている。ドアに背を向けて座っていた彼女は、こちらを振り向いて立ち上がり、
「おかえり。今日は帰れたんだね。2人分つくっておいてよかった。」
 と屈託のない笑顔を見せてくれた。寝起きの声がすこし色っぽかったのか、下着のない体の曲線が艶っぽかったのか、ご無沙汰の男が起こされたのか、いや、今日はむしろ非情な仕打ちを癒してほしいという思いが強かった。パジャマのままの彼女を抱きしめて、体を強く押し付け合う。

「ちょ、ちょっと、山口くんどうしたの。」
 という言葉を制すように、吾輩は彼女の口唇を塞いだ。彼女の温もりが徐々に感じられてきたとき、自然と涙が出てきた。吾輩にはこの仕事しかできない。本当は会社を辞めたくなかったが、吾輩が彼女のために飛び込んだ世界は、思った通りではなかった。生き抜くためには残酷な割り切りも必要だ。この1ヶ月の出来事がひとつひとつ思い出されるたびに、僕らの口づけはより濃厚なものになり、そして、僕らの歩みは2人が完全に触れ合える場所を目指していた。いつもの段取りや、お互いの好きな手続きが、今日は不要であると悟った彼女は、そのまま吾輩自身を受け入れた。

「今回の仕事は明後日で終わるよ。そうしたら僕が肩代わりしたみのりちゃんの借金にもメドがつく。」
「うん、ありがとう。」
「次の仕事も決まりそうだし、そうしたら、僕がこのあとずっと…」
「うん。」
「『本当の』僕が働く理由に…」「うん、そう。…」

 言葉を最後まで言い切れぬまま、僕らの「いつもより特別な確認」は済んだ。吾輩はそのまま泥のように眠りについていたようだ。3時ごろ目覚め、ダイニングへ向かうと、彼女が、吾輩のランチ兼ディナーのようなものを用意してくれていた。
「おはよう。よく寝てたよ。もう会社行くよね。」
 豆腐ハンバーグを作る彼女の姿はとても幸せそうにみえた。嬉しかった。

 最終日。1人だけスポットだった吾輩は、予算の都合上延長もなく、他のメンバーより先に満了を迎えた。
あれ以来、WBS以外のことをする気は失せていたが、いちおう、川村さんと浅見さん他レインボーさんのメンバーに挨拶をし、ランサースタイルのメンバーにも一言ずつ回った。吉沢さんが心配だったが、連絡先は聞かないでおいた。

 この業界を選ぶこと、そして、フリーランスという生き方を選ぶことは人それぞれの理由がある。そう考えると、仕事のやり方を論じることはただの綺麗ごとに過ぎないのだろう。ただ、時代が変わっても、仕事は自分で取れることが、のぞましいと思いたい。物別れには終わらない「卒業」という概念をエージェントにも。

おわり