(1)プロローグ

 吾輩はシステムエンジニアーである。仕様はまだ無い。

 前の現場の同僚に勧められて、フリーランスというものになってはみたものの、どこの現場も状況はそんなに変わらないようである。会社に属さないエンジニアーを、フリーランスという立場で、仕事を紹介してくれる、ランサースタイルというところを訪ねたのは、まだ、前の会社に在籍していたころの、風の強い、春の週末だった。

「新年度が始まったばかりなんでね、新しい案件が動き出すとか、交代要員の募集の時期ではないんですが…。比較的大きめの、終わっていないプロジェクトっていうのが、いくつかあって、そういうところから、一時的な要員ってことで声がかかっていたりするんです。」
 吾輩を迎えてくれた、営業の出水さんが、それまで、左手だけで持っていた経歴書を、両手で握りしめるように持ち替え、吾輩の目を見て話し始める。それを察し、少し言葉を選ぼうとしたのだが、
「うーん、それは、いわゆる『火消し』ってやつですかね。」
と吾輩は発してしまっていた。出水さんも同じように、少し時間をおいてから、
「まあ、そういうことになりますね。」
と口を結ぶ。

 吾輩としても、四半期の切れ目でないときに、仕事がないことも、また、こういった時期に募集がかかる案件に、何らかの問題があることもわかっている。要員にしても然りだ。サラリーマン時代も、火消しに投入され、うまく役目を終えて抜け出せたところもあれば、しばらく抜けられなくなったところもある。出水さんが続ける。
「月末に、今の会社を退職されて、即稼動をご希望ということなので、ちょっと、そういった案件ですが、山口さんは、10 年のベテランでいらっしゃいますんで、しばらく、こちらで頑張っていただいて、いま、営業をかけている長期の案件をご紹介できるように進めて行きますんで。」

 『火消し』だからなのかどうかはわからないが、システムの概要や体制の説明などはなく、初日の朝に訪ねたプロジェクトリーダーとは、朝の挨拶を交わし、席はここ、やることは隣の人に聞いてくれ、この人も同じ所属の人だから、と言い残し、自席に座るや否や腕まくりをし直して、何やらすごい勢いで自分の世界に戻っていった。なるほど、やはり、スケジュールは大きく遅れているのだなと認識したが、プロジェクトリーダーとは、それっきりである。さて、ファイルサーバーとソースリポジトリーの場所、そして、プログラムのビルドと実行までの手順を教えてくれた、くだんの「同じ所属」の隣人にこのあとの段取りを問う。

「吉沢さん、実行できましたけど、WBSによると、僕の担当は3Aの画面ですかね。でも、この画面、全然動かないんですけど。」
 プロジェクトの雰囲気を探りつつ、事を荒げたくないような静かな口調を努めたが、それは、隣人が若い女性であるというせいもあっただろう。
「ああ、やっぱりそうですか。たぶん、共通関数の仕様が変わっていて、それが反映できていないんだと思うんですけど。ちょっと見てもらっていいですか。」
 今日で着任して三日経つが、この現場は火を噴いているわりには、比較的穏やかな空気が流れている。その不思議さを彼女の口調にも感じた。
「それは、お易い御用なんですけど、もう、ちょっとソース見ました。例えば、この、仕入先コードですけど、3Aの1で値をセットしている場所と、3Aの2で取得する場所が違いますね。どっちが正解なのかはわかりませんけど。」
「ああ、そういうのもあります。」
「まあ、しょうがないですね、これ動くようにすればいいんですよね。でも、ざっと見た感じ、こういうのが多そうですね。明らかに書いてないところもある。」
「ええ、作った時期によって、考え方が違ってて、うまく噛み合ってないんです。それを今、直しながら、テストしているところなんです。」
 吉沢さんの口調が、若干の焦りに変わる。とはいえ、ランサースタイルの島には、吾輩も合わせて、六人のメンバーがいるのだが、彼らからはそういった隠れた焦燥感は感じない。時折、談笑に花が咲くこともある。

「これは、私も悪いと思ってるんですけど。」
 吉沢さんが、か細い声を出して続ける。
「初めのうちは、安藤さんから渡される設計書を細かく見て、画面間のつながりとか設計書に書いてない例外処理とか、そういう疑問やつじつまがあわないところを確認しながら作っていたんです。で、途中で、三か月くらい前だと思うんですが、今使っているフレームワークだと帳票の印字方法がお客さんの要望に合わなかったり、生産性があまりよくない、とかいうことで別のフレームワークを使うことになったんです。」
「はあ、そんなことがあったんですか。」
「はい。結局、それまで作っていたプログラムを新しいフレームワークに置き換えていったんですが、それを、新規で開発する機能と並行で作業することになってしまって…。少し、体制が混乱した時期でもあったので、置き換え分も新規分もちゃんとテストすることができず、ごらんのありさまなんです。」
 ちなみに安藤さんというのは、我々の上位会社であるレインボーソリューションの設計担当の人だそうだ。向かいの島に座っている。プロジェクトリーダーは、その前の席で相変わらず自分の世界に入っている。

 吾輩はそれ以上、問うことはしなかった。このプロジェクトにはいろいろな問題はあろうが、そういったことは気にせず、今、ここにある動いていないプログラム達を、実装の美しさやあるべき形などは二の次で、とにかく、動くようにすればよいのだという、割り切りの感情を自身に浸透させようとしていた。ちょっと、煙草を吸ってくることにする。吾輩は愛煙家なのだ。