(25)卒業という概念

 吾輩はシステムエンジニアーである。もうページがない。

 あの一件以来、川村さんは言うことを聞いてくれるようになり、レインボーの安藤さんと桜木くんも、吾輩にはある種の信頼をおいてくれるようになった。吾輩がつくった環境で山中くんのテストも進むようなってきたが、綱渡りであることに変わりがないことは、メンバー全員が認識していたようだ。何よりも、一番それを感じていたのは浅見リーダーだったのだろうが、吾輩の満まで残り3日となったというのに、彼の吾輩へ当たりが冷たくなってきたことが気になっていた。
 予定を遵守するために徹夜を決め込んだ朝五時、最後の大物のテストが終わった。あとは細かい3本を昼間にこなして、吾輩もお役御免だ。状況を報告したいので、定時でメンバーがそろうまで、少し仮眠をしようとしたとき、ふと印刷されたWBSが目に入り、吉沢さんと里見さんの次のタスクを入れ替えたほうが絶対に早いと気がついた。浅見リーダーが出勤してきたら、話をしてみよう。……ZZz

「もう、余計なことはしないでもらえますか。」

 浅見リーダーから告げられた言葉に吾輩は凍り付いた。この案件のリーダーは俺だと言いたかったのか、はたまたはじめから、ソフトランディングなんてする気はなく、失敗してみせることで川村さんの会社の責任問題にしたかったのか、もう議論する気力は残っていなかった。お前がプロジェクトの雰囲気を改善しようとしないから、WBSに書いてないことまでしてやったのに、なんだいその態度は。だいたい、蒼井とか、浅見とか、吉沢とか、桜木とか、里見とか、ここは恵比寿マスカッツ(初代)か!

 もう疲れた。
 幸い、今日は火曜日で美容室は休みだから、徹夜明けで帰ると、みのりちゃんが家にいるはずだ。しばらく、まともに話せていなかったので、午前中から軽く酒盛りでもしよう。
 
 かろうじて寝落ちは免れて自宅にたどりつき、リビングのドアを開けると、テーブルには2人分の朝食が用意してあった。トーストの香ばしい匂いがただよっている。ドアに背を向けて座っていた彼女は、こちらを振り向いて立ち上がり、
「おかえり。今日は帰れたんだね。2人分つくっておいてよかった。」
 と屈託のない笑顔を見せてくれた。寝起きの声がすこし色っぽかったのか、下着のない体の曲線が艶っぽかったのか、ご無沙汰の男が起こされたのか、いや、今日はむしろ非情な仕打ちを癒してほしいという思いが強かった。パジャマのままの彼女を抱きしめて、体を強く押し付け合う。

「ちょ、ちょっと、山口くんどうしたの。」
 という言葉を制すように、吾輩は彼女の口唇を塞いだ。彼女の温もりが徐々に感じられてきたとき、自然と涙が出てきた。吾輩にはこの仕事しかできない。本当は会社を辞めたくなかったが、吾輩が彼女のために飛び込んだ世界は、思った通りではなかった。生き抜くためには残酷な割り切りも必要だ。この1ヶ月の出来事がひとつひとつ思い出されるたびに、僕らの口づけはより濃厚なものになり、そして、僕らの歩みは2人が完全に触れ合える場所を目指していた。いつもの段取りや、お互いの好きな手続きが、今日は不要であると悟った彼女は、そのまま吾輩自身を受け入れた。

「今回の仕事は明後日で終わるよ。そうしたら僕が肩代わりしたみのりちゃんの借金にもメドがつく。」
「うん、ありがとう。」
「次の仕事も決まりそうだし、そうしたら、僕がこのあとずっと…」
「うん。」
「『本当の』僕が働く理由に…」「うん、そう。…」

 言葉を最後まで言い切れぬまま、僕らの「いつもより特別な確認」は済んだ。吾輩はそのまま泥のように眠りについていたようだ。3時ごろ目覚め、ダイニングへ向かうと、彼女が、吾輩のランチ兼ディナーのようなものを用意してくれていた。
「おはよう。よく寝てたよ。もう会社行くよね。」
 豆腐ハンバーグを作る彼女の姿はとても幸せそうにみえた。嬉しかった。

 最終日。1人だけスポットだった吾輩は、予算の都合上延長もなく、他のメンバーより先に満了を迎えた。
あれ以来、WBS以外のことをする気は失せていたが、いちおう、川村さんと浅見さん他レインボーさんのメンバーに挨拶をし、ランサースタイルのメンバーにも一言ずつ回った。吉沢さんが心配だったが、連絡先は聞かないでおいた。

 この業界を選ぶこと、そして、フリーランスという生き方を選ぶことは人それぞれの理由がある。そう考えると、仕事のやり方を論じることはただの綺麗ごとに過ぎないのだろう。ただ、時代が変わっても、仕事は自分で取れることが、のぞましいと思いたい。物別れには終わらない「卒業」という概念をエージェントにも。

おわり

(24)林先生に聞くまでもない

 吾輩はシステムエンジニアーである。仕様はまだないが、もうそんなことはどうでもいい。

 山中くんの環境を受け取ったときには、もう陽は大きく傾いていた。テストをすることを受け入れた山中くんは、吾輩の環境でテスト作業のギアを、2速、3速と上げようとしている。オンサイトの鉄則がわかっている、という言い方とは少し異なる気がするが、彼は「山口さんは自分のタスクがあるんでしょ。レインボーさんに投げたらいいんじゃないですか。」と言うが、蒼井さんがいなくなっている今、タスク調整するのでもう少し調べてみてくださいと言われて、そのままの作業を押し付けられるのが関の山だろう。同じ環境でテストすることは、データが重複してしまい生産性の邪魔をする。こういった環境の原因追及は、明らかになりにくいが、重要なクリティカル・パスで、いつまでも追いかけてくる。いつやるかどうなんて、林先生に聞くまでもない。
 さて、起動処理が失敗するところまで動かしてみる。なんのエラーメッセージもなく、「起動処理に失敗しました」というメッセージのみが表示される。すべてのログを見る、おかしいところは何もない。基本に立ち返って、ひとつひとつ見ていく。

 時計の針は午後10時を回ったが、さすがに今日はまだ誰も帰らない。そして、山中くんの環境が動かない理由はまだわからない。さすがに途方に暮れて喫煙に立つ。

 喫煙所からの下界の景色は暗闇だが、今、吾輩がいる高層ビルのとなりには新しいビルが建てられようとしていることに今日の今日まで気がつかなかった。システム構築は家を建てることによく例えられる。きっと、ビル工事にもタイトなスケジュールというのはあるのだろうが、我々との決定的な違いは、日没したら帰れるということだろうか。IT業界でも、持続可能社会における省エネとかにかこつけて、午後9時以降は基幹サーバーの電源を切るなどの法律ができないものだろうか。因果な商売だ。

 デスクに戻った吾輩は最終手段「ログ大作戦」に出ることにした。すべての分岐と、失敗が考えられるう結果をすべてのファイルに出力する方法である。すべてのログが入れ終わったとき、山中くんが話しかけてきた。
「僕キリがいいんでそろそろ帰りますが、どうですか。」
「んー、まだわからない。でも大丈夫、明日徹夜の予定だったのを今日にするから。できれば明日動く状態にしておくよ。」と彼に声をかけた。結果はどうなるかわからないが、ここまで献身的な姿を見てくれれば、さすがに少しは心動くだろう。
 午後10時40分。見慣れないログをようやく発見した。テスト用のデータベースを使っている場合に必ず出るエラーメッセージのなかに、吾輩の環境では出ていないメッセージが、しれっと、1行出ていることにやっと気がついた。

【推測される現象】ディスク領域が足りません。

 吾輩のデータベース領域ははじめからテスト用だったので多めにとられていたが、山中くんのそれはテスト用ではなかったので領域が少なかったということらしい。こんなこと、わかるわけがない。インフラを対応できるのは川村さんだけだ。午後11時8分、川村さんが帰ろうとしている中、浅見リーダーに話を通して、吾輩だけで元請の川村さんにお願いをしに行く。相変わらず、レインボーの社員は、川村さんと話をしたくないらしい。レインボーの社員達が吾輩の背中を見守るなか、

「えっと、川村さん、山中さんのデータベース領域が小さくて、テスト環境が起動しないんです。拡張してほしいんですが。」
「ン、明日じゃアカン?いや、明後日の昼やな。明日は状況を自社に報告しに行かなアカンねん。」
 このひと関西人だったのか。
「そういうことなら、ぜひ今お願いしたいです。彼の領域で今晩私がテストしたいんです。」

 彼は表情を変え、声量を増やす。
「もう終電なんだよ!大体、こうなったのは、お前らの責任だろ!そういうことはもっと早く言えよ!俺は今日は帰るからな!」このひと怒ったら標準語になるのか、面白いひとだ。レインボーさんもかわいそうに。何も決めないというひとがこのひとであったならば、蒼井さんも運が悪すぎた。後ろで見守っていたレインボーさんが罵声にたじろいでいたのがわかり、吾輩も少しうろたえたが、この「感情的な発言」の使い方には納得がいかなかった。いくばくかの怒りをおぼえたのち、呼吸をととのえ、吾輩は彼に耳打ちした。

(吉沢さんを付け回していること、みんなにバラしますよ。)

 15分もしないうちにディスク領域は増え、彼はタクシーで帰っていった。やりたくなかったが、これしかなかった。

(23)パソコンを覚えたての少年

 吾輩はシステムエンジニアーである。このプロジェクトのシステムはまだ動いていない。

 今晩は長丁場であろうと、今日のアジフライ定食はご飯を大盛りにした。これだけでも、夕方のお腹の空き具合は違う。
 下界からデスクに戻ると、蒼井さんが言っていた通り、山中くんは荷物をまとめることはしていなかった。むしろ、いつもの一人で大人になりましたみたいな顔ではなく、若干猫背ぎみに、ノートPCに向かって、マウスをポチポチしている姿は、パソコンを覚えたての少年のように見えた。
 さっきの長い会議のあと、浅見リーダー一同は、彼になんと声をかけたかはわからない。ただ、蒼井さんの無念と、蒼井さんが彼を連れてきたという話を聞くと、彼の、その尖ったプログラマー像が社会人になりたてのころの吾輩の姿を思い出して、あまりいい気分になれなかったから、触れないようなしようとしていたという、そんな気持ちは少し和らいでいた。いや、そんな情緒的なものよりも、火事場にいることを決めた気持ちを尊重したい。

 彼が画面を凝視していたのは、テスト環境を作るためだいうことは、彼の後ろを通ったときにわかった。蒼井さんが志向した保守を用意にするための方式では、いくつものミドルウェアを必要としていた。吉沢さんや里見さん、そして吾輩のやることは変わらないのでそのセットアップはできているが、彼はずっと新規だったので、開発環境しか入っていなかったのだろう。
 往々にして、こういった火事場の環境設定手順書はどこかが細かいところで間違っている。たいていは、設定ファイルの1文字が大文字であるところが小文字になっているとか、サーバーに上がっているライブラリファイルが更新されないままになっているとかであるが、こういったことは、ソフトウェア方式や、その特性を理解していないと正解を導けないことが多い。吾輩もはじめのころにはずいぶんこの構成に苦労させられたので、正解の設定手順書はできている。これを全体に共有していないのは、共有しましたとアナウンスしても、誰からも感謝されそうにないからだ。自らの裁量を決め、裁量を越えることにはおうかがいを立て、自分の責任の範ちゅうにしない、ということは、どこでも言われるオンサイト作業での鉄則だが、この「自分の裁量」を越えることを、積極的に拒否し、閉じこもるようになったとき、鉄則である金言はいわゆる「デスマーチ」の定義に変わる。

 さて、吾輩も、昼前に立てた段取りで、新しいWBSを捌いてゆく。吉沢さんは言うことなかれ、ただの文句の1つも言わず馴染みのない画面を動かし始めているし、里見さんは明らかに他人の作った画面が割り当てられていたが、なんだか目つきがいつもと違っていた。こういったことが初めてなのかもしれない。あのアナウンスの実現可能性はともかく、効果があったといえるのかもしれない。
 オフィスをまぶしい西日が照らし、ブラインドが閉じられるようになった午後三時ごろ、いつもは一時間に一度のところを、心地よい緊張感で仕事が進んだ吾輩は、昼食以来の喫煙に立った。山中くんの後ろを通ると、まだセットアップが終わっていない。手早く用を済ませ、彼に話しかける。

「まだ動かない?」山中くんは突然話しかけられたことにびっくりしていたが、瞬時に事情を察したかのように、
「…ええ、手順書通りやってるんですけど、どうしても、起動処理に失敗して。もう3回くらい同じことやってるんですけど。」
「あっ、その手順書間違っているところがあるよ。正しい手順をまとめてあるからIPで送るよ。」

 しばらくして、正しい手順書を送ったIPメッセンジャーの返信には(やってみましたけど動きません。なにが違うんですかねえ。)とやってきた。浅見リーダーは離席中、安藤、桜木両名は、この状況を受け入れたくないのか、とある画面や機能のあるべき論を議論している。ここまできてそんなことやってる場合かよ。仕方がない。

「僕の環境をコピーして送るから、そっちで動くかやってみて。こっちでもやってみるから、そっちの環境もコピーして送って。」
と山中くんに告げ、1時間かけてお互いのコピーを送り合った。山中くんが自端末に展開した吾輩の環境については、彼がわざわざ吾輩の隣にやってきて、
「山口さん、動きましたよ。何が違うんですかね。差分とっても、接続先が違うだけなんですけど。」
と少年のような眼差しを投げかける。

「そっか。しばらく僕の環境使っていいから、それでテスト進めたらどうかな。たぶん、そっちの環境が動かないのを追いかけるのは僕が見たほうが早いだろうからちょっと見てみるよ。」

(22)他人に歩み寄る努力はできているか

 吾輩はシステムエンジニアーである。世の中にとって不必要な仕事というのは何ひとつない。しかしながら、無理な仕事を請ける必要はないし、しなくてもいい仕事はある。それはわがままという意味ではないのだけれど。

 あとから聞いた話だが、「炎上宣言」があった会議のあと、山中くんは、元請の役職者と川村さん、レインボーの浅見さんとあの場に残って、新しいWBSでの作業での説明をこんこんと受けていたらしい。会議からデスクに戻った彼を除くメンバーは総勢は、昼のチャイムが鳴るまでの数分の間、これから起こる嵐の2週間のことをできるだけ考えないように、めいめいがぼんやりと過ごしているように見えた。吾輩も、両手で後頭部を押さえて、このあとの段取りを整理していた。このまま行けばあすは徹夜で、少し寝て、あれとこれのQ&Aを出して、週末に間に合わせて…と考えていたとき、山中くんだけでなく、お誕生日席の蒼井さんも席にいないことに気づいた。ほどなく、携帯電話を片手にものすごい剣幕で蒼井さんが自席に戻ってきて、帰り支度をはじめた。そうか、優秀なディレクターとして迎えられたのに、会社をまたいだ意思決定のプロセスに不満を持ってから、我関せずと定時退社を決め込んでいた彼は、これ以上、ここにいても仕方がないという判断をしたんだな。

 実は、蒼井さんのことは、この現場に入る前に営業の出水さんに聞かされていた。ランサースタイルさんの中でも1、2を争う優秀なアーキテクトで、山口さんとはスキルや目指す方向も似ているみたいだから、ぜひ参考にしてくださいとのことだった。だが彼が「話しかけるなオーラ」を出していたこともあり、世間話のただ一度すらできなかった。彼の帰り支度が終わり、現場をあとにしようとしたのは、ちょうど昼のチャイムが鳴ったときだったので、つぎに一緒になることはあるかどうかわからない、特に話し掛けるつもりもなかったが、昼食のために下界へ降りる吾輩と、エレベーターホールで並んで3号機を待つことになった。

「山口さんですよね。」まさか話しかけられるとは思わず、すこしまごついたが、蒼井さんはデスクにいるときの、仏頂面に近い無表情と違った、とても柔和な表情を見せた。やっぱり演技してたんだな。
「…はい…そうです。お話しはうかがってたんですが、こういう現場ではちょっと話し掛ける機会もなくって。出水さんに退場を願い出たんですかね。」
「そうですね、交代要員をお願いしました。今日は引き揚げます。もうここに来るつもりはないですけど。」

 出水さんが言っていたように、目指す方向や、志向していたポジションが似ていたのは、彼が「一時期まで」構想をまとめていた、方式やフレームワークのドキュメントを見て感じてはいた。違いがあるとするならば、彼はこの現場で使っているMという言語に特化していることと、できるだけ最新のテクノロジーを使おうとしていたことだ。ただ、これがこのシステムないしはメンバーのスキルを含めたプロジェクト全体に最適であったかといえば、それはどうであったのか。

「でも、山口さんすごいよね。俺にはあんなことできねえわ。」
 3号機が地上に近づく中で浅見さんがつぶやく。この一瞬でわかりあえたような吾輩はもうひとつ踏み込んでみる。
「問題は、山中さんがね、ちゃんと予定通りのことをやってくれるかだと思うんですけど。」

「山中ねえ、あいつは、俺が連れてきたんだけど、途中で言うことを聞かなくなっちゃってね。…プログラムをもう書かなくなってる俺が残るよりも、あいつは残るという選択をすると思うけど、俺からもよく言っておくよ。
…しかし、揃いも揃って、自分に責任が降りかからないように、何も決めないし、何も理解しようとしないよね、ユーザーに近ければ近いほど。バカばっかりだ。それでいて、できていなければ会社を挙げて、全力で文句を言ってくる。こっちは、そちらが何も決めないからだと言っているのに、聞く耳を持たない。俺も長いから、そんなことがよくあることはわかっているけれど、今回はひど過ぎた。無責任なようだけど、あとは任せるわ。」

吾輩の任期はあと2週間で、使命は動かないものを動くようにすることである。彼とは役割が違い、彼の気持ちも痛いほどわかった。他人のせいにすることは簡単だが、果たして他人に歩み寄る努力はできているか。システムは客と一体になって作るものであるということが、今の日本のITの構造で実現可能であるのか。お互い同意という顔を合わせて、彼の後ろ姿を見送った。

(21)デリバリーではなくムーディー

 吾輩はシステムエンジニアーである。このコロナ禍でテレワークが急速に浸透したが、我々がわかったことは「テレ」でも「テレでなく」ても、個人の本質的な仕事のやり方は変わらなかったいうことではなかったか。

 密を避けるという事情を機に、それぞれの会社のコラボレーションツールは、整備されたというよりは使わざるを得なくなり、個人PCの仕事フォルダーの同期先が、イントラのファイルサーバーからクラウドに変わっただけで、本来の、誰がいつどこにいても同じ情報や同じノウハウにアクセスできるという本来のツールのポテンシャルは活かせているか。
 ウェブ会議は、会議室の数と、参加者の現在地からは解放されたが、オフィスに出勤していたとき、隣にいきなりどっかと腰を下ろし言いたいことだけを言っていたひとは、同じように、ぶしつけにいきなり通話ボタンを押して呼び出してきたのだろうし、メールでやりとりすればいいだけのことを、わざわざウェブ会議で確認したがったひとは、テレワーク以前は、ウェブ会議では伝えられないから、こちらに来いというひとだったろう。

 20年前の「ブロードバンド」によって、「ビジネスにおける物理的な距離」はさらに飛躍的に縮まったが、同時に整備されたコラボレーションツールをセットにした、それらを利活用するスキルと、遠隔地であるからこそ必要なコミュニケーションスキルの向上こそが、コロナ禍以前の「テレワークの定着」に密接に関わっていたはずだったが、ウィルスの広がりはそんな高尚なものの成熟は待たなかった。むしろ「出勤」というものが、日々自分を見失わないようにするために必要であったのだと気づかされ、それに代わるものを探し続けた日々であったろう。
 すっきりとしない気持ちは、チャットメッセージにどのような影響を及ぼしたかわからない。ただ、上下関係のある組織での「仕事」では例外はある(と思いたい)として、距離があるテレコミュニケーションで、もっとも重要なことは「他人は自分の道具ではない」とつねに考えておくということだろう。依頼時に尊重すべきは、それを言われた相手の気持ちであって、メールやチャットメッセージの転送は、たいへん「ムーディー」だが、それだけで「デリバリー」が完了しているとは言えるだろうか。相手を尊重するということは、必要以上にへりくだるということではなく、依頼する側の役割に応じた主体性を、依頼される側に伝えるということではないだろうか。

 さて、吾輩こと山口は、一身上の都合で、10年務めたシステム・インテグレーターを辞めてフリーに転向し、ランサースタイルさんより、火消し案件であるこの現場を、個人事業主のデビュー戦として共同受注した。1ヶ月の短期案件で、はじめの二週間は、元請の体制がいびつで、メンバーの仲があまりよくないこと、自身の考えるフリーランス像との乖離、さまざまな経緯とさまざまなスキルを持ったエンジニアが、炎上案件で身を守っているさま、そして、相変わらず「仕様がない」ことだけでなく、なければならない「いろんなことがない」こと等々を感じてきた。そして、このプロジェクトがうまくいくように、この10年の経験を活かして、末端からではあるが「動いて」きたつもりであったが、先ほど、元請とエンドユーザーで検収、要するにお金に関する約束ごとがなされ、毎日の進捗会議、スケジュールの遵守、場合によっては、宿泊費や交通費は負担するので徹夜も辞さないという、いわゆる「炎上宣言」がプロジェクト全体でアナウンスされた。

 その会議の、長さと要領の得なさ呆けながら、吾輩が喫煙所に向かったとき、元請の会社の川村さんからセクハラ気味につきまとわれているのは容姿端麗だからで、実はシングルマザーであると、この短い間でわかった、吉沢さんは「何かあったら、営業の出水さんに文句言いましょ。」という吾輩の発言を聞いて「なんだか、山口さん楽しそうですね。」と言ったが、別に楽しいわけではない。いよいよか、仕方がないかと、身が引き締まる思いではあったが、決して楽しいという感情ではない。

 そもそも、こんなバラバラな現場で、こんな施策がうまくいくのだろうか。さっき見たWBSでは、積み残し機能の設計をしているはずの二次請けのレインボーソリューションの安藤さんや桜木くんにもテストのタスクが割り当たっていたし、最初のころ「自分が書いた以外のコードのメンテはしません」とか言って現場に来なくなった里見さんはまた来なくなるかもしれない。ただ彼女とは、タスクの入れ替えを吾輩との間でしてみせることで、少しは考えが改まってきたようにはみえる。
 いちばんの問題は「新規開発をしてもらうことがプロジェクトにとって最適な作業であ」った山中くんは会議での発言を制されたが、どのように説き伏せるつもりだろうか。レインボーソリューションの浅見リーダーのお手並み拝見である

(20)ここから飛び降りろってことですか

 吾輩はシステムエンジニアーである。大規模なソフトウェアプロジェクトのマネージャーは現場の事情を知らない。いや、知る術がない。

 里見さんと食べるあのチェーン店での牛丼と親子丼。彼女が箸を止め、吾輩がしたスケジュールへの提案について質す。
「そういうこと、勝手に判断してもいいんでしょうか。」
「いいんじゃないですか。まだ全体の進捗会議とかもないでしょう。スケジュールも毎日更新されているし。」
「ありがとうございます。」
 と言いながら、れんげで親子丼をすくう彼女の表情には、さっき押し殺していたように見えたものが、少しなくなっているように見えた。

 オフィスに戻った吾輩は浅見さんに状況報告をし、吾輩の次の予定だったタスク等を全体的に勘案した結果、里見さんのタスクを手伝ってよいという許可をとりつけた。席に戻り、結果を里見さんに伝えたうえで、どの部分をもらうかという調整をした。ひとつ前に進んだかな。自席に戻った吾輩は「3Aの大き目の四画面」ができるだけ早く終わるようにとりかかった。

 終電間際まで残業した翌朝、オフィスのパソコンを広げると、メンバーへの一斉送信で、九時半からメンバー全員に伝えたいことがあるので喫煙所の手前にある会議室に集合するようにという旨のメールが来ていた。送信日時は昨晩の十二時半、差出人は浅見さんで、CCには見慣れない役職者と思しき二人のの名前も入っていた。あまり穏やかなメールではない。考えられることはひとつだろうとは思いつつも、テストの続きをして、そろそろという時間になったとときに会議室へ席を立つ。レインボーさんの三名、個人契約で入っている小倉さん、あと我々ランサースタイルの六名が何か会話をするわけでもなく、喫煙所の手前の会議室までばらばらに歩く。会議室は十五人くらい入る大きさで、すでに、元請けの岸さんと川村さん、それに、メールのCCに入っていたと思われる二人の役職者も座っていた。

 順不同で着席した我々に、A3両面カラー印刷六枚の資料が配られた。これは毎朝更新されていたスケジュールだ。吾輩は火消しのつもりで入っているのですべてのタスクを眺めていたわけではないが、残りタスクはこんなにあるのか。そして、ほとんどがテストという名前の動かないプログラムの修正で、そこには、「新規機能をやることがプロジェクトにとって最適」であるはずの山中さんの名前も入っている。ざわつきはしなかったが、それぞれの作業には口を出さないことが暗黙のルールになっている雰囲気のなかで、意図的な沈黙が作り出された。これはつまり、メンバー全員が心中穏やかでない、ということを意味するだろう。初めて顔を見る、元請の岸さんという人が静かに口を開く。

「えー、朝早くお集まりいただきすみません。進めてまいりました『販売管理システム三社合併対応』ですが、これまではレインボーリューションさんの管理のもとで、スケジュール調整をしていただいてまいりましたが、昨晩、エンドユーザーと元請である我々の幹部が話し合いを持ちまして、検収の都合上、今月中に動いていないプログラムを動作させるという取り決めがなされました。つきましては、これまで、進捗会議をせずに、個々人の頑張りに頼っていた部分がありましたが、お配りしましたスケジュールを死守しなければなりません。申し訳ありませんが、日がまたぐ残業や、休日出勤をお願いするかもしれません。遅れについては、早めに対処をしたいので、毎日、九時半より朝会、六時より夕会という形で進捗会議をいたします。では、レインボーの浅見さん、朝会の進行をお願いします。」

 しまった。えらい現場に来てしまった。

 こう思ったのは、僕だけではなくここにいるすべてのひとがそう思っただろう。幸い、吾輩のタスクは少し頑張ればなんとかなりそうで、里見さんのお手伝いの件も新しいスケジュールには反映されていた。山中さんがなんというか、と思った瞬間山中さんが口を開いていた。
「すみません。仰っている意味がよくわからないんですが。これは実現可能なスケジュールなんですか?」という発言を聞いた浅見さんが、岸さんに目配せしながら、
「個別の確認については、のちほど説明しますんで」と彼の発言を制した。十人近い進捗がすぐ終わるわけがない。プログラムのわからない役職者への説明もあり、初回の朝会は結局昼までかかった。

 二時間半のあまり生産的ではない会議を終え、みなうなだれるようにデスクに戻っていく。吾輩はタバコが吸いたくて仕方がないからみんなとは逆の方向の喫煙所へ行こうとしたとき、吉沢さんに声をかけられた。

「これは、ここから飛び降りろってことですね。」
「そうですね。まあ、とりあえずやってみて。無理そうだったら、出水さんに文句言いましょ。」
「なんだか山口さん楽しそうですね。」
 いや、そんなことないんだけど。

(19)この質問の大義名分

 吾輩はシステムエンジニアーである。吾輩の知っているフリーランスはいちいち進捗を聞かれることを厭う。

「いや、抵抗はないですよ。この近辺のお店よくわからなかったのでちょうどいいですね。ご一緒させてもらっていいですか。たぶんこの近くだとあのチェーンですよね。だったら、親子丼が食べたいです。」
との里見さんからの快諾を受け、自宅の最寄り駅がどこで、通勤には何分くらいかかるのかという可もなく不可もない話をしながら、あのチェーン店に向かう。ここは、カウンターだけでなくテーブルもあるので、昼時でもわりと座れる。ちょうど開いていた角のテーブル席に二人で向かい合わせに座り、彼女の親子丼と、吾輩のミニ牛丼とかきあげうどんが運ばれてくるのを待つ。ここまでくる間のそこそこの会話をもうひとつ掘り下げてみる。
「里見さん、そういえば、あンとき、ループの後判断とか前判断とかつまらん話をして申し訳なかったです。」
「ああ、いえ。ああやって、自分のコードについて意見されたことがなかったのでついムキになってしまいました。こちらこそ失礼しました。あのあと、ほかの人のコードも見るようにして、ループの前判断と、局所変数を使うようにして修正してます。私、この業界は三年目くらいなので、まだプログラムがよくわからないんです。」
 ふむ、彼女も吉沢さんと同じパターンか。、残念ながら、吾輩には彼女の前職にふみこむほど気持ちのゆとりがなかったが、彼女が続ける。

「だから、私の前の席の山中さんが、すごいと思うんですよね。プログラムも上手だし、ドキュメントも早い。何よりもすごいと思うのは、お客さんに正論を述べるところですよね。私には正論が何かがわからないし、お客さんと言い合う度胸もないし、結局、したいかしたくないかぐらいしか言えない。」

 正論というのはニュアンスが違うような気もするが、自分が不勉強であるということはよくわかっているのか。そして、したいかしたくないか、というより、これならできる、こうあるべきという思いの赴くままにプログラムをしているのか。それは、アレだな。僕が二十年前に実家にあったウィンドウズでホームページとスクリプトを夢中になって書いてたのと同じだな。両親に見せて意見されたときに、受け入れられずに言い返したことを覚えている。

「理由を説明すればいいだけだと思うんですけどね。理論武装が不足しているときは大義名分でもいいんですけど、まっとうな理由を説明するには知識がいるし、知識がある程度たまったところで自分なりに体系付けして、それらを横でつなげないといけない。いつまでも条件反射だと、仕事は早いけれど、いわゆる応用が利かなくなる。スミマセン、同じくらいの年なのに生意気言って。やっぱりこういう話になっちゃった。」何かに気づいたようにじっとこちらを見ながら、沸き起こるなにかを押し殺すように彼女が答える。

「そういう山口さんは何年目なんですか?」
「私ですか。私は十年サラリーマンやって、この春に辞めました。十一年目です。でもテクノロジーは変わってますしね。年数なんてあんまり関係ないと思いますよ。」
「十年もやってたら、役職もついてた頃じゃないですか。なんで辞めたんですか?どうしてフリーになったんですか?」

---しまった。この質問の「大義名分」を用意していなかったと、口ごもっているところに、「親子丼と、かきあげうどんセットお待たせしました。」という助け舟が出た。二人の目の前にどんぶりが三つ並べられるのを見ながら、割り箸を割って、大義名分を考える。

「えっと、社内政治みたいなものに負けたんです。ちょっと会社に居られなくなった。」
「そうですか。いろいろあるんですね。人間関係というやつですかね。」
 七味を振りかけながら、里見さんが訊ねる。

「そうですね。そういうようなことです。」
 と吾輩は、少し無責任気味に放ち、うどんの出汁をすする。話題を変えたかったわけではなかったが、次の話題を思い出す。

「そういえば、私の『大き目』のほうが明日には終わりそうですけど、里見さんどうですか?いやっ、進捗ってわけではないんですが。」
 吾輩の知っているフリーランスはいちいち進捗を聞かれることを厭う。

「んー。残念ながら、ご存じのようにちょっと凝り固まったコードになってるんで進みが悪いです。私はあと三日くらいはかかるかも。」
「そうですか。じゃあ、私、手伝いましょうか。仕様はなんとなく頭に入ってるんで。お昼終わったら、浅見さんに言ってみます。」

(18)牛丼屋に入ることに抵抗はある?

 吾輩はシステムエンジニアーである。どんな職業であっても体が資本であることは間違いない。健康が問題であるのであれば、まずは仕事をセーブして、健康を問題にしないようにしなければならない。IT業界がブラックと言われて久しく、最近では中小企業でも働き方改革に必死だが、社員の健康を第一に考えるというのは、20世紀から変わってこなかったことじゃないだろうか。それを第一としない会社あるいは組織というのは淘汰されてきたように思う。まずは健康を大事にしてください。(ということで、今回より、クオータリーに代わり、この連載は3ページに増えます。)

 さて、健康の話の続きだが、吾輩は心技体のバランスを保つということを気をつけるようにしている。どれかひとつが満たされていたとしても、いずれかが満たされていなければ、全体のパフォーマンスは一番満たされない要素まで落ち込んでしまう。簡単にいえば、何か不安なことがらがあると、仕事に手がつかないということだ。
我々の世界で「技」の部分は、自分の興味の赴くままに振る舞ったり、新しいテクノロジーにアンテナを張るようにすればある程度は満たされていく。また、今後発展していくテクノロジーを見極めて、それを修得していくことで、面接に行けるオンサイト先が増える。また、興味がない分野であったとしても、生き残っていくために、新しいテクノロジーを身につけるという言い方もある。

 「体」の部分は、その言い方に近いかもしれない。興味の赴くところを自重しなければならない場合もある。乾燥の時期、意外と効果があるのはうがいと手洗いだ。そしてよく寝ること。
とはいえ、いつも納期に追われていたり、プロジェクトの中での自分が欠かせない存在になっている、あるいは、そのような立ち位置に自分を導くということなどで、自然と心地の良い緊張感が生まれているときは、不思議と風邪はひかないものである。「心」の部分はそういった意識の持ち方という面もあるが、職場での人間関係よりも、自分が不安なく生活していけることが一番の課題だと思う。
 そして、「技」の部分には、OSSプロジェクトの英語ドキュメントに書かれていることや、IPAがつくっている体系や、PMBOKに書いてあることの外側をおおっている「ヒューマンスキル」というものも含まれると、吾輩がサラリーマンのときにはそう教えられたが、どうもこの現場には、そんな意識が感じられないのは、こんな時代になっているせいか。少なくとも、もういちどいうが、「少なくとも」「この現場の」ランサースタイルのメンバーにはそのような意識がない。それは、レインボーソリューションのプロパーさんにもそのような意識がないというのも一因だろう。

 昨晩のカレーをあてに呑んでしまいそのまま寝てしまったが、ずっと「3Aの大きめの四画面」のテスト完了がずっとひっかかっており、今朝は二本早い特急に乗れた。人がまばらなオフィスで腕まくりをし、一心不乱にテスト仕様書とエビデンスを整える。この調子であれば、明日には成果物も上がるだろう。朝一番で確認した、浅見さんによる「希望的観測」に基づいた「プロジェクトにとって最適な作業を検討した」スケジュールでは、明日が完了になっている。浅見さん二日ほど押して申し訳ない。明日には確実にあがりそうだ。単月の契約も、もうすぐ半分を過ぎる。いきなり馬鹿でかい画面を充てられたが、生産性のアピールのするのは十分だろう。この調子で来週も頑張れば、単価と延長交渉もできていくようになるかしら。

 自席からは遠い向こうにある高層階の開かない窓に、少し水滴がついてきた。少し雨が降ってきたようなので、折り畳み傘を持って昼食に出る。エレベーターホールに出ると、いつも自席でお弁当を食べている里見さんが下行きの五号機を待っていたのに気がついた。彼女の現在の勤怠は通常運転に戻ったが、例の一件があったこともあり、会話は少し避けていたところがあるが、彼女の担当画面が吾輩のそれと関係のある「3Aの小さ目の数画面」であるから、少しコミュニケーションをとろうとひらめく。

「あらっ。里見さん、今日はお弁当じゃないんですか。」
「ええ、ちょっと今日寝坊してしまって。社食も口に合わないので外に出ようかと。雨降ってますけど。」
 ばつが悪そうにボソボソとしゃべるさまには、ああ彼女はこんな顔をするんだと新鮮な驚きを感じつつ、
「そうですか。僕もいつも外なんですよ。ああ、そうだ。今日は私、牛丼の気分なんですけど、一緒にどうですか。ああ、女子は牛丼屋入ることに抵抗ありますかね?」

(17)夏野菜のチキンカレー

 吾輩はシステムエンジニアーである。リモートワークとひきこもりの違いも紙一重である。

 既に寝ているとはいえ、小さい子がいるとわかった美女をひっぱるのは2杯が限界だった。抱え込んでいた思いを打ち明けられ、晴れ晴れとした表情になった彼女は、2杯目にショートカクテルを頼みたそうにしていたが、お互い深酒の平日にはさすがに抵抗し、2杯目もビールでの時間を共有した。ほろ酔いの帰路、そろそろプライベートスペースが少し確保できる時間になった電車のなかでひとり吾輩は、小一時間の会話を整理する。

 お子さんの存在は、レインボーの浅見さんとの面接のときには話したので、もしかしたら川村さんにも伝わっているかもしれない。もちろん、ランサースタイルの出水さんには最初に話している。少しは年長者の吾輩からは、守るべきものがあるからといって、耐え抜くことは美徳かもしれないが、オッサンのふるまいをたしなめる術もそろそろ学んだほうがよいのではないかということと、現場のキーマンに気に入られているのは、アドバンテージであるから、それを利用するということも考えていいのでは、ということを話した。ようするに、もう少しいい意味で「したたか」であってよいのではという無責任な発言ができたのは、女性の相談は、話を聞いてもらいたいだけということを、吾輩が既に知っていたからだろうか。つまり、2杯目は、マンハッタンでもニューヨークでもマティーニでも呑んでもらったほうが彼女にとってはよかったのかと悔いた。
 言葉とは正反対の意志を目で語ったり、相手の発言を冗談として取り消せる返事を選べるようになることは、システムエンジニアーが必ずしも身に着けるべきものではないし、仮にそれらを発動したとして、長年積み重なってほころんだ衝動が、分別なく抑えられなかったとしたら、そこには何らかの制裁があるべきだろうし。

 現場から40分の駅を降り、自宅までの歩を進める。酔いが醒めかかった夜道で、過程と現状はともかく、守るべきものがある吉沢さんがうらやましいとふと思った。彼女が働く理由は驚くほど明白だ。いや、吾輩の働く理由も明白には違いないが、彼女には、その先があるように思う。吾輩には、まだそれがないうえ、システムエンジニアリングをしなくてよい、と言われたら何をしたらよいのかわからない。

 自宅の鍵を開けると、小学生のころに友達の家から帰る途中に漂っていた、食欲がそそられるにおいで部屋中が満たされていた。ただ、あのころの、空腹の夕焼けに心躍るわかりやすいにおいではなく、もうすこしさわやかなにおいだ。正体がカレーであることはすぐわかったが、1LDKのリビングの灯りをつけると、大きな茄子とトマトが食卓にごろごろと転がっており、それらを重みをするようにして、便箋に書き置きがしてあった。
 あっ、みのりちゃんが来てたのか。

 「山口くんへ。
  実家から、気の早いでっかいなすびとトマトが届いたので、
  夏野菜のチキンカレーを作りました。
  一緒に食べようと待っていましたが、
  明日はお店の鍵開けで早いので、先に帰ります。
  山口くんがフリーになったのは私にも一因がありますが、
  あまり無理しないでください。では、また週末に。
                     -みのり。」

 もう21世紀で、しかも吾輩はIT系なのだから、LINEでもメールでも送ってくればいいのに、こうやって書き置きをするのは、みのりちゃんが筆まめだからというのもあるが、彼女なりの気遣いというのもあるだろう。繁華街のキャストだった彼女とは、春先に正式につきあうことになったのだが、その前後に、彼女は免許を持っていた美容師に転職し、そして、吾輩はフリーランスになることを決めた。

 ご飯とは別の皿に盛りつけられていたルウはまだ少し温かい。芋焼酎を濃い目に水で割って、カレーと今日の出来事をあてに呑み直す。結局、市販のルウでまとめたのはキッチンを見ればわかったけれど、鶏もも肉をほおばるとバターの香りが口いっぱいに広がる。うまい。「彼女ら」のことを考えながら、フリーになった理由について噛みしめ、その先にあることを考えているうちに、スーツを着たまま、眠りについてしまっていた。

 夏至が近い明るい朝方、アブラゼミの鳴き声と痛烈な朝日が窓を照らすなか、少し汗ばみながら目が覚めた。昨日の酒は抜けた。さて、シャワーを浴びて現場に行くか。あのプロジェクトがうまくいくために、吾輩にできることをできるだけやってみる。

(16)今こそ使うべきだった

 吾輩はシステムエンジニアーである。最近、誤解されているようなのだが、この小説はあくまでもシステム開発の現場を描いているつもりである。

「ここ、ずっと気になっていたんですけど、こんな感じのお店だったんですね。」
 一昨日に小倉さんと「吾輩の考えるフリーランスとの違和感」について話した、現場近くのショットバー。電球色のスポットライトと間接照明でまとめられた店内は、カウンターが6席と、壁際に二人掛けの丸テーブルが3つ。おあつらえ向きにBGMはジャズピアノが流れている。理由はどうあれ、こういうお店に若い女性と2人で来ることが緊張しないといえば嘘になる。とはいえ、吉沢さんの弾んだ口調に安堵しながら、彼女をカウンターの奥の席へエスコートする。
「私いつも一杯目はジンベースなんですが、今日はご飯前に軽く、ということなんで、ビールにしましょうか。」
「ビール好きです。そうしましょう。」
「あ、タバコって吸ってもいいですか?」
「いいですよ。私、父親がヘビースモーカーなんで平気です。」
 どう見ても20代前半の彼女はこういうところは慣れていないだろうという勝手なおせっかいで決めた一杯目を待ちながら、平日の夜、お互いに長居は明日に響くだろう。手短にまとめようと、メビウスを一息吸い、本題に突入する。

「うーん、営業の出水さんには相談しました?川村さんからストーカーまがいのことされてるって。」
「いえ、まだ言ってません。それは最後の手段かなって。エクセルのマクロが組めるだけの、ほぼ未経験の私をこの現場にねじ込んでくれたの出水さんのおかげですから。それに、この現場を終わることになって、新しい現場が見つかるかどうかのほうが不安です。せっかく、フリーランスとして仕事が始められたのに。」
「そうですか。前職は歯科技工士って言ってましたね。」
「はい、入れ歯作ってました。」
 二人の間に和んだ笑いが起こった。

「ところで、川村さんはずっとあの調子なんですか?」
「3カ月前に、私と同じ時期に入ったメンバーの歓迎会があってからですね。川村さんの知り合いが近くの繁華街で小料理屋をやってるから、一緒においしい季節の天ぷらを食べよう、とか言う話で盛り上がっちゃって。別に何の感情もあるわけはないんですけど、なんとかこの現場でやっていきたくて。社交辞令を積み上げていったら、そのうち、今度高校生になるお子さんがいるのに、奥さんと別居してるとか、そういうところまで話が行っちゃって。後に引けなくなったという感じです。」
「うーん、疑似恋愛ってやつですか。」
「変な言葉ですね。」
「疑似恋愛自体は悪いことじゃないと思うんですよ。自分を高められたり、楽しい気分になれるのであれば。それを口に出したり、態度に出すからおかしなことになる。」
「私、歯医者さんを辞めさせられて、派遣で事務をしていたときも、なんか一方的に男性につきまとわれるってことがあったんです。そのときは、ランサースタイルさんの仕事が決まったので、事なきを得たんですが。これからは、技術者のはしくれとして、コンピュータだけが相手になるから、人間関係で悩むことはなくなると思っていたんですが、そんなことはないんですね。」

「ちなみに『辞めさせられた』ってなんですか?」
「ああ、自然と口に出ちゃってましたか。失礼しました。あんまり人には言わないんでほしいんですが、私、学校を出て、20歳のときに町の歯医者さんに入ったんですけどね。ご夫婦でやってらしたんですけど、旦那さんのほうの先生と関係を持ってしまって。それが奥さんの逆鱗に触れまして、辞めさせられました。」

 そういう話はもっと遅くなってから聞きたかったが、まあ彼女から言ってきたことだから仕方がない。驚いたが呼吸を整え、
「それは恋仲だったんですか?」
「いえ、向こうからの猛烈な感じでした。ただ、この話は続きがあって。あのとき、なにか間違ってたみたいで、辞めさせられたあと、お腹に赤ちゃんがいることがわかって。今頃、両親に寝かしつけられてると思います。もう三歳になりますね。」
「え!吉沢さん、子供いるの?」たまげた。
「そうですよ。だから、男の人に振り回されて、仕事を追われるってことは絶対にしたくないんです。子供のためにもね。」
 そう言って、ハートランドをぐいぐいと呑む横顔には、今まで彼女が見せなかった強い母というものを感じた。今こそ使うべきだった、いろんな人生がある。