(2)受け身というニュアンス

 吾輩はシステムエンジニアーである。仕様があるのかどうかはまだわからない。

 川沿いの立派なビルの高層階。フロアの隅の、ガラス張りで仕切られた一角が、この現場の喫煙所である。ヤニがこびりついた大きな窓に向かいメビウスを吹かす。眼下は遊覧船が川を漂い、初夏が河川敷を深い緑にしようとしている。右耳からは仕事の話、左耳からは先週末の家族サービスの話。ふと、喫煙所の外に目をやると、カップベンダーの前で、吉沢さんが両手でカップを持って、コーヒーを飲んでいるのが見えた。彼女も少し休憩のようである。さっきは気づかなかったが、濃紺のワンピースという姿に驚き、目鼻立ちもよく整っているのを再認識する。素直さのようなものが残る話し方からも、まだ二十代中盤くらいだろう。その年齢で、よくフリーランスという立場を選んだものだと感心しつつ、火を点けたばかりの、二本目を灰皿に押し付け、喫煙所を出た。カップベンダーの前を通る。

「吉沢さん。」
「あ、はい。お疲れ様です。」
「なんか、大変な仕事ですね。私、単月ですので、さっさと自分の分、片付けて終わろうと思います。短い間ですけど、よろしくお願いします。」

「ところで、フレームワークが変わったときに、全機能の実装見直しは、別スケジュールにすべきだったと思うんですが。いや、吉沢さんに言っても仕方のないこともしれませんが。」
「いえ、私もそう思ってました。でも、スケジュールが遅れているとのことで、そう決まったんです。こうなることは、なんとなくわかってましたが。」
「意見しました?」
「いえ、しませんでした。」
「なぜです?」
「私は、下っ端のプログラマーですから。」

 プログラマーという言葉に受け身のニュアンスはもう無い。リナックスが普通になるあたりまで続いていた、職業プログラマーが書いたフラグだらけのコードは、もうあまり生まれなくなっている。今日は、業務エンジニアリングにおいてでも、古き良き美しいコードに励んできたアマチュアプログラマーの文化が浸透していっているわけである。新人のころは、そういったコードを書いて、お前しか読めないものを書くなとよく怒られたものだが、今はそういったことは少ない。そして、汎用機の時代にあった、コーダーを単純作業として雇うことは現代のシステム開発ではありえない。テクノロジーが多様化しており、プログラムを単純作業にすることができないからである。そもそも、二十一世紀のプロジェクトには、そんな時間もカネもない!
 むしろ、オペレーティングシステムに用意されたAPIを呼び出して、興奮していた学生時代とは異なり、その先にある、顧客の要件を満たすプログラムを我々は書いている。仕様理解の深度や、顧客との距離はあろうが、プログラマーとして、WBSに組み込まれていたとしても、我々はシステムエンジニアーという言い方のほうが、ふさわしいのではないか。だからといって、プロジェクト全体を見渡して、最適な振る舞いをすることが、システムエンジニアーの仕事なのか、ということには議論の余地がありそうだが。

「うーん。じゃあ、吉沢さんは、この高いビルの上から、飛び降りろって言われたら、飛び降ります?」
「え?飛び降りるわけないじゃないですか。」
「それと一緒だと思うんですけどねえ。飛び降りなくてもいいように知恵を絞る。」
「確かにそれはそうですが、スケジュールや、プロジェクト運営のことは、私が考えることじゃないでしょう。今、私は、ここの現場で使っている、Mという言語を修得するのに必死なんです。」
「なるほど。プログラマーに徹していると。」
「ええ。出会って間もないのに、こんな話するのは、漱石の坊っちゃんの冒頭みたいで変ですけど、私は、もともと歯科技工士だったんです。そのまま続けてもよかったんですけど、あるきっかけで、派遣で事務をやるようになって。そこで、エクセルのマクロを作らされたんです。」
「作らされた。」
「はい。そこで作ったものが非常によくできていたみたいで、あれよあれよと、いろんなひとの紹介で、ランサースタイルにいるのがいちばんいいということになったんです。今、私は振り落とされないように必死なんですよ。」

「わかりました。もう、こういう話はしないことにします。最後にひとつだけ教えてください。」
「なんでしょう?」
「プログラムは好きですか?」
 目を見開き、真一文字に結んだ彼女の唇は、笑みのようにも見えたが、
「わかりません。でも、楽しいです。」
「そうですか。失礼しました。じゃあ、先に戻りますね。」
 坊っちゃんの冒頭を思い出しながら、自席へ歩みを進めた。いろんな人生がある。
 
 

(1)プロローグ

 吾輩はシステムエンジニアーである。仕様はまだ無い。

 前の現場の同僚に勧められて、フリーランスというものになってはみたものの、どこの現場も状況はそんなに変わらないようである。会社に属さないエンジニアーを、フリーランスという立場で、仕事を紹介してくれる、ランサースタイルというところを訪ねたのは、まだ、前の会社に在籍していたころの、風の強い、春の週末だった。

「新年度が始まったばかりなんでね、新しい案件が動き出すとか、交代要員の募集の時期ではないんですが…。比較的大きめの、終わっていないプロジェクトっていうのが、いくつかあって、そういうところから、一時的な要員ってことで声がかかっていたりするんです。」
 吾輩を迎えてくれた、営業の出水さんが、それまで、左手だけで持っていた経歴書を、両手で握りしめるように持ち替え、吾輩の目を見て話し始める。それを察し、少し言葉を選ぼうとしたのだが、
「うーん、それは、いわゆる『火消し』ってやつですかね。」
と吾輩は発してしまっていた。出水さんも同じように、少し時間をおいてから、
「まあ、そういうことになりますね。」
と口を結ぶ。

 吾輩としても、四半期の切れ目でないときに、仕事がないことも、また、こういった時期に募集がかかる案件に、何らかの問題があることもわかっている。要員にしても然りだ。サラリーマン時代も、火消しに投入され、うまく役目を終えて抜け出せたところもあれば、しばらく抜けられなくなったところもある。出水さんが続ける。
「月末に、今の会社を退職されて、即稼動をご希望ということなので、ちょっと、そういった案件ですが、山口さんは、10 年のベテランでいらっしゃいますんで、しばらく、こちらで頑張っていただいて、いま、営業をかけている長期の案件をご紹介できるように進めて行きますんで。」

 『火消し』だからなのかどうかはわからないが、システムの概要や体制の説明などはなく、初日の朝に訪ねたプロジェクトリーダーとは、朝の挨拶を交わし、席はここ、やることは隣の人に聞いてくれ、この人も同じ所属の人だから、と言い残し、自席に座るや否や腕まくりをし直して、何やらすごい勢いで自分の世界に戻っていった。なるほど、やはり、スケジュールは大きく遅れているのだなと認識したが、プロジェクトリーダーとは、それっきりである。さて、ファイルサーバーとソースリポジトリーの場所、そして、プログラムのビルドと実行までの手順を教えてくれた、くだんの「同じ所属」の隣人にこのあとの段取りを問う。

「吉沢さん、実行できましたけど、WBSによると、僕の担当は3Aの画面ですかね。でも、この画面、全然動かないんですけど。」
 プロジェクトの雰囲気を探りつつ、事を荒げたくないような静かな口調を努めたが、それは、隣人が若い女性であるというせいもあっただろう。
「ああ、やっぱりそうですか。たぶん、共通関数の仕様が変わっていて、それが反映できていないんだと思うんですけど。ちょっと見てもらっていいですか。」
 今日で着任して三日経つが、この現場は火を噴いているわりには、比較的穏やかな空気が流れている。その不思議さを彼女の口調にも感じた。
「それは、お易い御用なんですけど、もう、ちょっとソース見ました。例えば、この、仕入先コードですけど、3Aの1で値をセットしている場所と、3Aの2で取得する場所が違いますね。どっちが正解なのかはわかりませんけど。」
「ああ、そういうのもあります。」
「まあ、しょうがないですね、これ動くようにすればいいんですよね。でも、ざっと見た感じ、こういうのが多そうですね。明らかに書いてないところもある。」
「ええ、作った時期によって、考え方が違ってて、うまく噛み合ってないんです。それを今、直しながら、テストしているところなんです。」
 吉沢さんの口調が、若干の焦りに変わる。とはいえ、ランサースタイルの島には、吾輩も合わせて、六人のメンバーがいるのだが、彼らからはそういった隠れた焦燥感は感じない。時折、談笑に花が咲くこともある。

「これは、私も悪いと思ってるんですけど。」
 吉沢さんが、か細い声を出して続ける。
「初めのうちは、安藤さんから渡される設計書を細かく見て、画面間のつながりとか設計書に書いてない例外処理とか、そういう疑問やつじつまがあわないところを確認しながら作っていたんです。で、途中で、三か月くらい前だと思うんですが、今使っているフレームワークだと帳票の印字方法がお客さんの要望に合わなかったり、生産性があまりよくない、とかいうことで別のフレームワークを使うことになったんです。」
「はあ、そんなことがあったんですか。」
「はい。結局、それまで作っていたプログラムを新しいフレームワークに置き換えていったんですが、それを、新規で開発する機能と並行で作業することになってしまって…。少し、体制が混乱した時期でもあったので、置き換え分も新規分もちゃんとテストすることができず、ごらんのありさまなんです。」
 ちなみに安藤さんというのは、我々の上位会社であるレインボーソリューションの設計担当の人だそうだ。向かいの島に座っている。プロジェクトリーダーは、その前の席で相変わらず自分の世界に入っている。

 吾輩はそれ以上、問うことはしなかった。このプロジェクトにはいろいろな問題はあろうが、そういったことは気にせず、今、ここにある動いていないプログラム達を、実装の美しさやあるべき形などは二の次で、とにかく、動くようにすればよいのだという、割り切りの感情を自身に浸透させようとしていた。ちょっと、煙草を吸ってくることにする。吾輩は愛煙家なのだ。