(15)プライベートスペースを少し犯すくらいの間隔

 吾輩はシステムエンジニアーである。リーダーに必要なことは、組織を私物化しない努力である。

 好物の豚の生姜焼き定食を食べ、オフィスに戻ったとき、くだんの二人はまだ戻ってきていなかったが、しばらくして、吉沢さんが先に戻ってきた。着席し、長財布をかばんにしまいこむ彼女に、お昼前の吾輩の勝手な判断の報告をする。

「あ、吉沢さん、パソコンがロックされてなかったんで、フタを閉めておきました。いつも、ちゃんとロックしてるのに珍しいですね。」
 その言葉を聞いた彼女は何かを思い出したかのように目を見開き、
「あっ、あ、ありがとうございます。」
 と、言葉を詰まらせながら答えてくれたが、見ようによっては少しうろたえているようにも見えた。

 開発現場の日中に雑然とオフィスの宙を舞うキーボードの音というのは、よくよく耳を澄ませば、その音が、何を作っているのかわかるのかもしれない。ブラインドタッチの英数入力で英語ベースの単語が打たれるプログラミングの音、ローマ字入力で日本語が打たれるドキュメントが作られる音。そして、それらの合間にマウスカーソルが動かされ、実際のそれと同じような間を含む、会話文が打たれる音。隣席から聞こえる音は、基本的には、マウス操作と画面を入力するテストの音だったが、それを阻害するかのように、頻繁に手が、マウスに持ち替えられ、明らかなローマ字入力の音が聞こえたあと、少し強めのエンターキーが響く。どうやら、川村マネージャーからの執拗なチャット攻撃にあっているのだと想像するのはたやすい。そして、吉沢さんはそれをよしとしていない。

 「3Aの大きめの4画面」は、今日の終了時には、動作確認までいけそうだ。毎朝、浅見リーダーによってメンテナンスされるスケジュールは希望的観測に基づくのは見て明らかで、今朝の最新情報では、明日が単体テスト完了となっていたが、この大物がようやく動作確認まで来るのは、このプロジェクトによっとも彼にとってもよい知らせであろう。喫煙に立とうと思った吾輩の横で、エンターキーを押す鋭い音が響いたと同時に、吾輩のモニターにIPメッセンジャーの封書が届く。送信者は吉沢さん、直接口に出して言えないことか。開封する。

(山口さん、すみません。私、今日八時ごろに終わると思うんですけど、山口さんは何時に終わりそうですか?もしよければ、地下鉄の駅まで一緒に帰ってもらいたいのですが・・・)
 お誘いなのかお願いなのか判断に困る内容だったが、彼女の表情をチラっと見ると、昼食前のあの困った眉毛になっている。進み具合によっては、十時くらいまでを覚悟していたが、そういうことなら一肌脱ぐかと返信する。

(よくわかりませんがいいですよ。ドキュメントのありかを教えてくれたお礼ということで。ちなみに、川村さんが関係ありますか?)
 吉沢さんからは言葉を選ぶように少し間をおいて、
(ええ・・・。無事に帰れたらお話しします。)
 という返信が来た。昼食時の検討の結果、何が起こっているかはだいたい察しがついていたが、しばらく知らんぷりを決め込む。

 夜7時55分、吉沢さんからの依頼事項をまわりに悟られないように、手提げかばんにノートと筆箱をしまい、そろそろ帰るというポーズを隣席にとる。オフィスに人はまだわりと残っている。パソコンがシャットダウンされたのを確認し、お疲れ様でしたとプロジェクトの空中に発し、ゲートを通り抜け、エレベーターの下ボタンを押す。高層ビルでは、この時間でも、10基のエレベーターはフル稼働で、なかなか止まらない。だだっ広いエレベーターホールのすみっこでそれらの行き来を眺めている間に吉沢さんがゲートから出てきたが、その後ろに、吉沢さんのプライベートスペースを少し犯すくらいの間隔で、川村マネージャーもついてきている。エレベーターホールまでやってきた吉沢さんと目で合図をし「お疲れ様です」と会釈し、彼女は、吾輩の近くに立つ。それを見ていたのか、川村さんは少し、距離を置いたところに陣取った。

 しばらくして25階で止まったエレベーターに、当然のように三人で乗り込む。運よくと言うか、乗り込んだ3号機には誰も乗っておらず、下界までの数十秒は何の会話もなかったが、おそらくこれが吾輩の本日最大のミッションだろうと、ビルの出入り口の自動ドアで吉沢さんと立ち止まり、川村さんが先に地下鉄の駅に向かうのを「お疲れ様でした」と見送った。二人で小さい歩幅を重ね、彼の後ろ姿が小さくなったのを確認し、吾輩が知らんぷりを解禁する。

「いつも、こうなんですか?」
「ええだいたい。しつこく誘われます。最近は手を握ろうとしてきますね。」
「どうします?このまま駅まで行ってもまた彼に会いますよ。軽く呑んで時間つぶします?」
「そうですね。少し呑みましょうか。」