(17)夏野菜のチキンカレー

 吾輩はシステムエンジニアーである。リモートワークとひきこもりの違いも紙一重である。

 既に寝ているとはいえ、小さい子がいるとわかった美女をひっぱるのは2杯が限界だった。抱え込んでいた思いを打ち明けられ、晴れ晴れとした表情になった彼女は、2杯目にショートカクテルを頼みたそうにしていたが、お互い深酒の平日にはさすがに抵抗し、2杯目もビールでの時間を共有した。ほろ酔いの帰路、そろそろプライベートスペースが少し確保できる時間になった電車のなかでひとり吾輩は、小一時間の会話を整理する。

 お子さんの存在は、レインボーの浅見さんとの面接のときには話したので、もしかしたら川村さんにも伝わっているかもしれない。もちろん、ランサースタイルの出水さんには最初に話している。少しは年長者の吾輩からは、守るべきものがあるからといって、耐え抜くことは美徳かもしれないが、オッサンのふるまいをたしなめる術もそろそろ学んだほうがよいのではないかということと、現場のキーマンに気に入られているのは、アドバンテージであるから、それを利用するということも考えていいのでは、ということを話した。ようするに、もう少しいい意味で「したたか」であってよいのではという無責任な発言ができたのは、女性の相談は、話を聞いてもらいたいだけということを、吾輩が既に知っていたからだろうか。つまり、2杯目は、マンハッタンでもニューヨークでもマティーニでも呑んでもらったほうが彼女にとってはよかったのかと悔いた。
 言葉とは正反対の意志を目で語ったり、相手の発言を冗談として取り消せる返事を選べるようになることは、システムエンジニアーが必ずしも身に着けるべきものではないし、仮にそれらを発動したとして、長年積み重なってほころんだ衝動が、分別なく抑えられなかったとしたら、そこには何らかの制裁があるべきだろうし。

 現場から40分の駅を降り、自宅までの歩を進める。酔いが醒めかかった夜道で、過程と現状はともかく、守るべきものがある吉沢さんがうらやましいとふと思った。彼女が働く理由は驚くほど明白だ。いや、吾輩の働く理由も明白には違いないが、彼女には、その先があるように思う。吾輩には、まだそれがないうえ、システムエンジニアリングをしなくてよい、と言われたら何をしたらよいのかわからない。

 自宅の鍵を開けると、小学生のころに友達の家から帰る途中に漂っていた、食欲がそそられるにおいで部屋中が満たされていた。ただ、あのころの、空腹の夕焼けに心躍るわかりやすいにおいではなく、もうすこしさわやかなにおいだ。正体がカレーであることはすぐわかったが、1LDKのリビングの灯りをつけると、大きな茄子とトマトが食卓にごろごろと転がっており、それらを重みをするようにして、便箋に書き置きがしてあった。
 あっ、みのりちゃんが来てたのか。

 「山口くんへ。
  実家から、気の早いでっかいなすびとトマトが届いたので、
  夏野菜のチキンカレーを作りました。
  一緒に食べようと待っていましたが、
  明日はお店の鍵開けで早いので、先に帰ります。
  山口くんがフリーになったのは私にも一因がありますが、
  あまり無理しないでください。では、また週末に。
                     -みのり。」

 もう21世紀で、しかも吾輩はIT系なのだから、LINEでもメールでも送ってくればいいのに、こうやって書き置きをするのは、みのりちゃんが筆まめだからというのもあるが、彼女なりの気遣いというのもあるだろう。繁華街のキャストだった彼女とは、春先に正式につきあうことになったのだが、その前後に、彼女は免許を持っていた美容師に転職し、そして、吾輩はフリーランスになることを決めた。

 ご飯とは別の皿に盛りつけられていたルウはまだ少し温かい。芋焼酎を濃い目に水で割って、カレーと今日の出来事をあてに呑み直す。結局、市販のルウでまとめたのはキッチンを見ればわかったけれど、鶏もも肉をほおばるとバターの香りが口いっぱいに広がる。うまい。「彼女ら」のことを考えながら、フリーになった理由について噛みしめ、その先にあることを考えているうちに、スーツを着たまま、眠りについてしまっていた。

 夏至が近い明るい朝方、アブラゼミの鳴き声と痛烈な朝日が窓を照らすなか、少し汗ばみながら目が覚めた。昨日の酒は抜けた。さて、シャワーを浴びて現場に行くか。あのプロジェクトがうまくいくために、吾輩にできることをできるだけやってみる。