(20)ここから飛び降りろってことですか

 吾輩はシステムエンジニアーである。大規模なソフトウェアプロジェクトのマネージャーは現場の事情を知らない。いや、知る術がない。

 里見さんと食べるあのチェーン店での牛丼と親子丼。彼女が箸を止め、吾輩がしたスケジュールへの提案について質す。
「そういうこと、勝手に判断してもいいんでしょうか。」
「いいんじゃないですか。まだ全体の進捗会議とかもないでしょう。スケジュールも毎日更新されているし。」
「ありがとうございます。」
 と言いながら、れんげで親子丼をすくう彼女の表情には、さっき押し殺していたように見えたものが、少しなくなっているように見えた。

 オフィスに戻った吾輩は浅見さんに状況報告をし、吾輩の次の予定だったタスク等を全体的に勘案した結果、里見さんのタスクを手伝ってよいという許可をとりつけた。席に戻り、結果を里見さんに伝えたうえで、どの部分をもらうかという調整をした。ひとつ前に進んだかな。自席に戻った吾輩は「3Aの大き目の四画面」ができるだけ早く終わるようにとりかかった。

 終電間際まで残業した翌朝、オフィスのパソコンを広げると、メンバーへの一斉送信で、九時半からメンバー全員に伝えたいことがあるので喫煙所の手前にある会議室に集合するようにという旨のメールが来ていた。送信日時は昨晩の十二時半、差出人は浅見さんで、CCには見慣れない役職者と思しき二人のの名前も入っていた。あまり穏やかなメールではない。考えられることはひとつだろうとは思いつつも、テストの続きをして、そろそろという時間になったとときに会議室へ席を立つ。レインボーさんの三名、個人契約で入っている小倉さん、あと我々ランサースタイルの六名が何か会話をするわけでもなく、喫煙所の手前の会議室までばらばらに歩く。会議室は十五人くらい入る大きさで、すでに、元請けの岸さんと川村さん、それに、メールのCCに入っていたと思われる二人の役職者も座っていた。

 順不同で着席した我々に、A3両面カラー印刷六枚の資料が配られた。これは毎朝更新されていたスケジュールだ。吾輩は火消しのつもりで入っているのですべてのタスクを眺めていたわけではないが、残りタスクはこんなにあるのか。そして、ほとんどがテストという名前の動かないプログラムの修正で、そこには、「新規機能をやることがプロジェクトにとって最適」であるはずの山中さんの名前も入っている。ざわつきはしなかったが、それぞれの作業には口を出さないことが暗黙のルールになっている雰囲気のなかで、意図的な沈黙が作り出された。これはつまり、メンバー全員が心中穏やかでない、ということを意味するだろう。初めて顔を見る、元請の岸さんという人が静かに口を開く。

「えー、朝早くお集まりいただきすみません。進めてまいりました『販売管理システム三社合併対応』ですが、これまではレインボーリューションさんの管理のもとで、スケジュール調整をしていただいてまいりましたが、昨晩、エンドユーザーと元請である我々の幹部が話し合いを持ちまして、検収の都合上、今月中に動いていないプログラムを動作させるという取り決めがなされました。つきましては、これまで、進捗会議をせずに、個々人の頑張りに頼っていた部分がありましたが、お配りしましたスケジュールを死守しなければなりません。申し訳ありませんが、日がまたぐ残業や、休日出勤をお願いするかもしれません。遅れについては、早めに対処をしたいので、毎日、九時半より朝会、六時より夕会という形で進捗会議をいたします。では、レインボーの浅見さん、朝会の進行をお願いします。」

 しまった。えらい現場に来てしまった。

 こう思ったのは、僕だけではなくここにいるすべてのひとがそう思っただろう。幸い、吾輩のタスクは少し頑張ればなんとかなりそうで、里見さんのお手伝いの件も新しいスケジュールには反映されていた。山中さんがなんというか、と思った瞬間山中さんが口を開いていた。
「すみません。仰っている意味がよくわからないんですが。これは実現可能なスケジュールなんですか?」という発言を聞いた浅見さんが、岸さんに目配せしながら、
「個別の確認については、のちほど説明しますんで」と彼の発言を制した。十人近い進捗がすぐ終わるわけがない。プログラムのわからない役職者への説明もあり、初回の朝会は結局昼までかかった。

 二時間半のあまり生産的ではない会議を終え、みなうなだれるようにデスクに戻っていく。吾輩はタバコが吸いたくて仕方がないからみんなとは逆の方向の喫煙所へ行こうとしたとき、吉沢さんに声をかけられた。

「これは、ここから飛び降りろってことですね。」
「そうですね。まあ、とりあえずやってみて。無理そうだったら、出水さんに文句言いましょ。」
「なんだか山口さん楽しそうですね。」
 いや、そんなことないんだけど。

(19)この質問の大義名分

 吾輩はシステムエンジニアーである。吾輩の知っているフリーランスはいちいち進捗を聞かれることを厭う。

「いや、抵抗はないですよ。この近辺のお店よくわからなかったのでちょうどいいですね。ご一緒させてもらっていいですか。たぶんこの近くだとあのチェーンですよね。だったら、親子丼が食べたいです。」
との里見さんからの快諾を受け、自宅の最寄り駅がどこで、通勤には何分くらいかかるのかという可もなく不可もない話をしながら、あのチェーン店に向かう。ここは、カウンターだけでなくテーブルもあるので、昼時でもわりと座れる。ちょうど開いていた角のテーブル席に二人で向かい合わせに座り、彼女の親子丼と、吾輩のミニ牛丼とかきあげうどんが運ばれてくるのを待つ。ここまでくる間のそこそこの会話をもうひとつ掘り下げてみる。
「里見さん、そういえば、あンとき、ループの後判断とか前判断とかつまらん話をして申し訳なかったです。」
「ああ、いえ。ああやって、自分のコードについて意見されたことがなかったのでついムキになってしまいました。こちらこそ失礼しました。あのあと、ほかの人のコードも見るようにして、ループの前判断と、局所変数を使うようにして修正してます。私、この業界は三年目くらいなので、まだプログラムがよくわからないんです。」
 ふむ、彼女も吉沢さんと同じパターンか。、残念ながら、吾輩には彼女の前職にふみこむほど気持ちのゆとりがなかったが、彼女が続ける。

「だから、私の前の席の山中さんが、すごいと思うんですよね。プログラムも上手だし、ドキュメントも早い。何よりもすごいと思うのは、お客さんに正論を述べるところですよね。私には正論が何かがわからないし、お客さんと言い合う度胸もないし、結局、したいかしたくないかぐらいしか言えない。」

 正論というのはニュアンスが違うような気もするが、自分が不勉強であるということはよくわかっているのか。そして、したいかしたくないか、というより、これならできる、こうあるべきという思いの赴くままにプログラムをしているのか。それは、アレだな。僕が二十年前に実家にあったウィンドウズでホームページとスクリプトを夢中になって書いてたのと同じだな。両親に見せて意見されたときに、受け入れられずに言い返したことを覚えている。

「理由を説明すればいいだけだと思うんですけどね。理論武装が不足しているときは大義名分でもいいんですけど、まっとうな理由を説明するには知識がいるし、知識がある程度たまったところで自分なりに体系付けして、それらを横でつなげないといけない。いつまでも条件反射だと、仕事は早いけれど、いわゆる応用が利かなくなる。スミマセン、同じくらいの年なのに生意気言って。やっぱりこういう話になっちゃった。」何かに気づいたようにじっとこちらを見ながら、沸き起こるなにかを押し殺すように彼女が答える。

「そういう山口さんは何年目なんですか?」
「私ですか。私は十年サラリーマンやって、この春に辞めました。十一年目です。でもテクノロジーは変わってますしね。年数なんてあんまり関係ないと思いますよ。」
「十年もやってたら、役職もついてた頃じゃないですか。なんで辞めたんですか?どうしてフリーになったんですか?」

---しまった。この質問の「大義名分」を用意していなかったと、口ごもっているところに、「親子丼と、かきあげうどんセットお待たせしました。」という助け舟が出た。二人の目の前にどんぶりが三つ並べられるのを見ながら、割り箸を割って、大義名分を考える。

「えっと、社内政治みたいなものに負けたんです。ちょっと会社に居られなくなった。」
「そうですか。いろいろあるんですね。人間関係というやつですかね。」
 七味を振りかけながら、里見さんが訊ねる。

「そうですね。そういうようなことです。」
 と吾輩は、少し無責任気味に放ち、うどんの出汁をすする。話題を変えたかったわけではなかったが、次の話題を思い出す。

「そういえば、私の『大き目』のほうが明日には終わりそうですけど、里見さんどうですか?いやっ、進捗ってわけではないんですが。」
 吾輩の知っているフリーランスはいちいち進捗を聞かれることを厭う。

「んー。残念ながら、ご存じのようにちょっと凝り固まったコードになってるんで進みが悪いです。私はあと三日くらいはかかるかも。」
「そうですか。じゃあ、私、手伝いましょうか。仕様はなんとなく頭に入ってるんで。お昼終わったら、浅見さんに言ってみます。」

(18)牛丼屋に入ることに抵抗はある?

 吾輩はシステムエンジニアーである。どんな職業であっても体が資本であることは間違いない。健康が問題であるのであれば、まずは仕事をセーブして、健康を問題にしないようにしなければならない。IT業界がブラックと言われて久しく、最近では中小企業でも働き方改革に必死だが、社員の健康を第一に考えるというのは、20世紀から変わってこなかったことじゃないだろうか。それを第一としない会社あるいは組織というのは淘汰されてきたように思う。まずは健康を大事にしてください。(ということで、今回より、クオータリーに代わり、この連載は3ページに増えます。)

 さて、健康の話の続きだが、吾輩は心技体のバランスを保つということを気をつけるようにしている。どれかひとつが満たされていたとしても、いずれかが満たされていなければ、全体のパフォーマンスは一番満たされない要素まで落ち込んでしまう。簡単にいえば、何か不安なことがらがあると、仕事に手がつかないということだ。
我々の世界で「技」の部分は、自分の興味の赴くままに振る舞ったり、新しいテクノロジーにアンテナを張るようにすればある程度は満たされていく。また、今後発展していくテクノロジーを見極めて、それを修得していくことで、面接に行けるオンサイト先が増える。また、興味がない分野であったとしても、生き残っていくために、新しいテクノロジーを身につけるという言い方もある。

 「体」の部分は、その言い方に近いかもしれない。興味の赴くところを自重しなければならない場合もある。乾燥の時期、意外と効果があるのはうがいと手洗いだ。そしてよく寝ること。
とはいえ、いつも納期に追われていたり、プロジェクトの中での自分が欠かせない存在になっている、あるいは、そのような立ち位置に自分を導くということなどで、自然と心地の良い緊張感が生まれているときは、不思議と風邪はひかないものである。「心」の部分はそういった意識の持ち方という面もあるが、職場での人間関係よりも、自分が不安なく生活していけることが一番の課題だと思う。
 そして、「技」の部分には、OSSプロジェクトの英語ドキュメントに書かれていることや、IPAがつくっている体系や、PMBOKに書いてあることの外側をおおっている「ヒューマンスキル」というものも含まれると、吾輩がサラリーマンのときにはそう教えられたが、どうもこの現場には、そんな意識が感じられないのは、こんな時代になっているせいか。少なくとも、もういちどいうが、「少なくとも」「この現場の」ランサースタイルのメンバーにはそのような意識がない。それは、レインボーソリューションのプロパーさんにもそのような意識がないというのも一因だろう。

 昨晩のカレーをあてに呑んでしまいそのまま寝てしまったが、ずっと「3Aの大きめの四画面」のテスト完了がずっとひっかかっており、今朝は二本早い特急に乗れた。人がまばらなオフィスで腕まくりをし、一心不乱にテスト仕様書とエビデンスを整える。この調子であれば、明日には成果物も上がるだろう。朝一番で確認した、浅見さんによる「希望的観測」に基づいた「プロジェクトにとって最適な作業を検討した」スケジュールでは、明日が完了になっている。浅見さん二日ほど押して申し訳ない。明日には確実にあがりそうだ。単月の契約も、もうすぐ半分を過ぎる。いきなり馬鹿でかい画面を充てられたが、生産性のアピールのするのは十分だろう。この調子で来週も頑張れば、単価と延長交渉もできていくようになるかしら。

 自席からは遠い向こうにある高層階の開かない窓に、少し水滴がついてきた。少し雨が降ってきたようなので、折り畳み傘を持って昼食に出る。エレベーターホールに出ると、いつも自席でお弁当を食べている里見さんが下行きの五号機を待っていたのに気がついた。彼女の現在の勤怠は通常運転に戻ったが、例の一件があったこともあり、会話は少し避けていたところがあるが、彼女の担当画面が吾輩のそれと関係のある「3Aの小さ目の数画面」であるから、少しコミュニケーションをとろうとひらめく。

「あらっ。里見さん、今日はお弁当じゃないんですか。」
「ええ、ちょっと今日寝坊してしまって。社食も口に合わないので外に出ようかと。雨降ってますけど。」
 ばつが悪そうにボソボソとしゃべるさまには、ああ彼女はこんな顔をするんだと新鮮な驚きを感じつつ、
「そうですか。僕もいつも外なんですよ。ああ、そうだ。今日は私、牛丼の気分なんですけど、一緒にどうですか。ああ、女子は牛丼屋入ることに抵抗ありますかね?」