(5)安心せい、ここは不夜城じゃ

 吾輩はシステムエンジニアーである。この現場には、仕様とは別のさまざまなものがあるようだ。

 山中さんの席の表向きの資料の件は、のちほど、喫煙所で消化することにして、吾輩にとっては、それより重要なスケジュール調整をせねばと心を落ち着かせながら、プロジェクトマネージャーと現場で初めての会話を試みるため、彼の横に立つ。タスクバーが満杯のノートパソコンの画面が見えた。

「浅見さん、すみません。3Aの画面なんですが、5日では足りなさそうです。仕様を把握するだけでも時間がかかりそうで、そのうえ、量が多すぎるかなと。」
 画面から目を逸らさずに吾輩の話を聞いていた浅見さんは、少しキリが悪かったのか、しばらくキー入力を休めなかったが、ようやく、吾輩のほうを向いた。ガリガリと頭を掻きながら言う。
「そうですか。うーん、納期延長を何回もやっているのでね、このスケジュールで終わることがマストという感じなんです。とりあえず、最速でやっていただいて、結果的に、山口さんのこのあとのタスクができなさそうであれば、それを別の人に割り振るという形で進めたいです。申し訳ないですが。」
 振り絞るように答えた彼は、眼鏡を外し、手のひらで両目を揉みこむように押さえた。あまり寝ていないのだろう。

 さて、なんか、タスクの割り振りとか考えてくれる、とか言ってはくれたのだが、要するに、とりあえずこれでやってくれということのようだ。この人が、狸かそうでないかの見極めは徐々にやっていくことにして、ならばと吾輩が続ける。
「ちなみに、ここは不夜城ですか?」
 不夜城という言葉は、前職の先輩がよく使っていた言葉だ。バブルより少し前の先輩たちは、残業が美徳で、無理なスケジュールをこなすということに誇りを持っていた。吾輩が先輩に無理難題を言われ、消極的な表情になったとき、冗談っぽく「安心せい、ここは不夜城じゃ。」とよく言われた。つまり、この現場は、最終の退出時間がないから、思う存分、残業できるという意味だ。浅見さんは言葉の意味を測りかねていたが、しばらくして、その意味を理解したのか、
「はい、不夜城です。」
 と返ってきた。そして、浅見さんが続ける。

「実は、先月ぐらいから、ここのテストを終わらせるために、会社も持ち出しを決断して、別の現場にいるプロパーを定時後に呼び寄せてテストをしているんです。今日も六時半くらいから十人くらい来ますよ。そういう状況なもので。」
 そういえば、着任して数日、定時過ぎあたりに、人がわらわらとやってきていて、空席にパソコンを持ち込んで作業していたのを見ていたが、そういうことだったのか。

「今日は、3Aの全容に面食らって、ずいぶん疲れました。すみませんが、今日は早く帰ってリフレッシュしたく。ここは不夜城ということもわかったので、明日からは終電くらいまでやりますので。」
「そうですか、わかりました。今日はゆっくりしてください。今日のプロパーの作業進捗で内部のスケジュールも変わってきますんで。」
「ありがとうございます。…ちなみに、書類が表向きだったんで見えちゃったんですけど、常駐組でテストしていない人もいますよね。」
 浅見さんは少し言葉を詰まらせ、
「そうですね。プロジェクトにとって最適な作業をやってもらっています。」

 なるほど。そういう言い方をする人か。
「でも、今、プロジェクトに最適な作業というのはメンバー全員でテストを終わらせることなんじゃないんですかね。」
 という吾輩の発言は、定時を伝えるチャイムの音にかき消された。浅見さんはもうすでに画面のほうを見ていたが、その横顔は、少し苦い表情であるように見えた。

 そういうことで今日はもう帰る。フリーランスになったばかりで、給与は報酬という呼び名に変わり、支払サイトというものと向き合わねばならない。今月は節約しなければならないのと、しばらくは残業が込みそうだから、今日は冷蔵庫にある期限が切れそうな卵と、冷凍してある豚肉で何か作り置きしようと思っていたのだ。帰りに白菜とか、もやしとか買っていこう。コメも六合炊きを目いっぱい炊いて、冷凍しておくことにしよう。吾輩は首から下げたIDカードをぐるぐる巻いて、鞄にしまいこんだ。

 帰りのエレベーターを一階で降りると、レインボーさんのプロパーと思しき7、8人の大群に遭う。若いのから、中堅ぐらいまでバラエティに富む。そこかしこから集めてるんだな。その人込みの中に、帰宅しようとしている山中さんの姿が紛れていた。そうか、別のエレベーターで降りてきたのか。駅までの数分、話しかけて真意を問うか、知らんぷりを決め込むべきか。